「これはグッドニュースなのか?」

グッド・ニュース―持続可能な社会はもう始まっている

グッド・ニュース―持続可能な社会はもう始まっている

本書で紹介される数々の素晴らしい活動は、逆にその裏でどれだけの環境破壊や汚染物質の製造、資源の浪費などが行われているかを知ることでもあり、その圧倒的な破壊力に無力感と絶望感を覚える方が大きく、とてもグッドニュースなどと喜んでいられない気持ちになります。しかしそれは、このような圧倒的な絶望感の中で長年闘ってきた人たちの見出した希望であり、確かな未来への道筋であるわけす。
けれども残念ながら、従来の価値観で環境破壊に加担する人たちは、このような本を手に取ることは無く、これまでどおり短期の経済原理に基づいた環境収奪を行っていくわけで、本書のメッセージは環境問題にある程度関心があり危機を感じているような人たちにしか届かないというジレンマがあるように思えます。
しかし、それは著者も十分わかっているものと思われ、まさに本書はそのような破滅的な現状をなんとかしたいと思っている人たちのために書かれた本であり、その意味でのグッドニュースであり、持続可能な新たな取り組みへの応援歌なのだと思われます。

著者はただやみくもに環境を保護しようといっているのではありません。自然の環境システムに従うことが長期的には経済的にも有利であり、人類の将来を守ることでもあることを訴えているものです。
そのような中で気になったのは、工業化された大規模農場よりも小規模の家族農場の方が環境負荷が低く生産性も高いといった言説です。環境負荷が低いののはわかりますが、生産性が高いというのは、昨今の効率を重視した農業の大規模化の動きとは相容れない内容であり、その真相を知りたいところです。

ただ忘れてはいけないのは、これらの素晴らしい活動の一方で、途上国などから大量の食料やエネルギーなどの資源を輸入して、結果的に環境破壊の元凶となっているのは日本を初めとした豊かな先進国であるということです。
最近の日本などでも、地球温暖化といったキーワードを軸にちょっとしたエコブーム程度の認識しかなく、本書に挙げられた一部の問題を含め、厖大な数の環境破壊が存在する現状をほとんど認識することがない人が大多数であるというのが現実ではないかと思われ、環境問題に対する危機意識の温度差の激しさを見る思いです。
ここには、情報がほとんど知らされない状況があり、大手企業をスポンサーとするメディアが情報を正確に伝えられないという状況も認識した上で、自身の行動の意味を把握できるリテラシーが必要な時代となっていることをもっと自覚する必要があるのだと思います。

確かに、本書のような危機意識を持って環境にやさしい活動を行っている人やそれらに賛同する人は確実に増加しているのだと思いますが、しかしその一方で、資源の浪費や環境破壊の現実は継続し、その根底にある経済原理に従い、グローバル化に伴う激しい競争の中で、効率と合理性を最優先にあくまでも短期的な利益を追求する従来型の企業は数多く存在します。
環境保全活動というのは、結局はそのような経済的合理性との闘いであり、環境や生活を守ろうとする行為は必ずと言っていいほど、企業の経済活動と競合関係にあるというのが、本書の内容からもよくわかることです。

国内における自分だけ損をしたくないという囚人のジレンマ状況を脱するには、政府の力をもってするしかないと思われ、環境意識の高い政府を持てれば、まだなんとか解決の可能性が存在すると思われます。しかし、世界を統合する政府の無い現在の状況では、互いの国家の利益を抑制するような枠組みの合意は非常に難しく、その端的な例が最近のCOP15に見られるような、自国の利益のみ重視したエゴ丸出しの各国の態度であり、地球的規模での問題解決の見通しはありません。
さらに、日本においては首相の掛け声のみで、産業界にはまるでやる気が見られない状況であり、まだまだ国民的意識の低さを感じざるを得ません。

本書の中の、地域資源の管理は地元住民に任せるべきであり、決して県や州政府などの中間組織に権限を与えてはいけないという言葉はたいへん示唆的です。
それは、必ず企業などの利益集団の影響を受け、公正な対処ができないからですが、本書の事例に見るように、実効性のある活動はどこもトップダウンではなくボトムアップであることから、当事者である地元の人たちが動かなければどうにもならないという事実を真摯に受け止める必要があるのだと思います。

これはまさに民主主義の実践であり、そのためには、何が真の幸せか、何によって幸福度を測るのかといった問いから価値観の変革を行い、草の根運動から解決を図っていくしかないのだと思われます。
まずは、近代の工業化により、何を得て何を失ったのかもう一度きちんと認識することが必要であり、今後自分たちは何を求めるのか、明確にしていく必要があるのだと思います。本書は既にそのような活動を始めている人たちの紹介でもあり、その人たちの一つの選択の結果としての、反グローバル化運動の意味もわかったような気がします。

この本はかなり厚いものですが、その厚さが意味するものは、我々の無知の大きさと将来に対する責任の重さなのかも知れません。

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<一言>
環境問題には前から関心がありますが、これほどその実践の難しさを実感するものもありません。
自分ひとりでどれだけ努力しても、身近に反環境的人間がいると全くの無駄になってしまうことの空しさはひとしおです。
しかし本書を初めとして環境問題に携わる人たちは、厖大な量の空しさを味わっているわけで、その忍耐強さにはただただ恐れ入るばかりです。
相当の使命感を持ってやっているのでしょうが、過激な環境主義者とのバランスの取り方も難しいと思われ、エコとエゴの問題も大きな課題のように思われます。
所詮は人間のための持続可能性なのですし、地球にやさしいなどという言葉は白々しく感じます。
環境問題をあまり美化しすぎないことが必要なのかも知れません。