「香山リカの憂鬱。」

いまどきの「常識」 (岩波新書)

いまどきの「常識」 (岩波新書)

香山さんの本はだいぶ前に読んだことがありますが、こんな感じの人だったでしょうか。
最近勝間さんとのバトルでも注目されているようであり、詳しくは知りませんが勝ち組思想の勝間さんに対してもっと平凡な人生でもいいじゃないかという反論のような話だと思います。本書はその論争に繋がるような数年前の新自由主義路線が最も進みつつあった当時の世相を批判的に捉えた、エッセイ集という感じの本のようです。

まえがきにあるように、著者の香山さんはその平和主義的な言論により様々な批判を浴び、毎日多数の批判的な手紙を受け取っており、かなり憔悴されている様子です。
私自身は香山さんの最近の主張をよく知らないので、その批判の妥当性はよくわかりませんが、本書はそのような批判の背景にある社会の不寛容さや閉塞感といったものを取り出し、徹底した現実主義や行き過ぎた自己責任論などが本当に自分たちの幸せにつながるものかという疑問を強く押し出しています。

ここで取り上げる現代日本社会の様々な事象や言説は、テレビや雑誌などのメディアでよく目にするものがほとんどであり、世間的な見方を代表していると言ってもよいのでしょうが、本書のメディアの章で著者が言及しているように、メディアの情報をそのまま鵜呑みにする必要はないのですから、必ずしも世間の総意というわけでもなく、メディアのフィルターを通したある意味偏った世間の見方とも言えるかもしれません。
ただし、著者の臨床現場の体験も踏まえた内容もあるので、著者の感覚的にはある程度実感を持った確からしさを感じているものと思われます。

同様の発言をする人も少なからず見られますし、私自身も同じような感覚を持っていますので、本書の内容もそれほど異論があるわけではありませんが、それでも、何か違和感のようなものを感じたのも確かです。それは著者の語り口なのだと思います。

なんだか刺々しいというか、攻撃的というか、もちろん今の状況を批判的に見ているのだから当然そうなるもの頷けますし、自身への批判的手紙への反発もあるでしょうが、どうもそれでは益々反感を買うことになりそうで、著者への非難は一向に止むことはないように思えます。もしかしたら、それは織り込み済みで、わざと敵愾心を煽って話を盛り上げていることも考えられますが、まえがきの記述からはそうではなさそうです。
例の勝間さんとの応酬でも、香山さんが一方的に議論を吹っかけている感じでもあり、二人のやり取りをテレビで観ましたが、勝間さんは確信的に自信をもって語っていたのに対し、香山さんはあまり余裕が感じられず闇雲に批判しているようにも見え、二人の議論はあまり噛み合っていないような印象を受けました。

香山さんの理念を語って何が悪いという主張には賛同しますし、本書で取り上げるような最近の世間の不寛容で世知辛い傾向にも違和感を感じますが、香山さんの語り自体にもそれらと同じような空気を感じ、結局は同じ社会の中で共通の土壌の影響を受けていのではないかという気がしないでもありません。
それはこのようなことを書いている私にも言えることなのだと思われ、誰しもその時代の空気が持つ影響からは逃れられないのではないかと思われます。

著者の香山さんは幅広く世間に目を配っているようで、様々な媒体から情報を拾い上てきて、現代日本の状況を捉えていますが、その視点は必ずしも精神科医というわけではなさそうで、批判的ではありますが断定的でもあり、事象の分析も深く行うわけではなく、「〜だろうか」といった結びで疑問を呈す形の批判を行っている感じです。

これは、自分の言説を否定する世間の風潮を「いまどきの常識」という形で批判的に捉えることで、自分自身を肯定したいという願望があるのではと思えなくもありません。もしそうであるなら、著者の物言いがどこか攻撃的に見えるもの頷ける気がします。

本書は、著者の批判的視点により様々な箇所から現代日本の社会の一面を切り取り、偏狭になりつつあると思われる人々の意識に対して疑問を呈する社会批判の書であると同時に、そのような社会から批判されて落ち込む著者の、ある意味自己肯定のための書なのではないかと思われます。

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<一言>
なぜ岩波はこの本を出したのか疑問に思われる本だと思われます。
ネームバリューで売れると踏んだのかも知れません。
しかし、分析はないし、言いっぱなしなのであまり読み応えはありません。
香山リカの言葉というところに価値があるのかも知れません。

「虐げられし若者の憤激。」

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

物質的な豊かさが広く行き渡ると共に社会が成熟化しつつも、不況と少子高齢化が相まって経済的な厳しさが増す現在、右肩上がりの成長を前提としてきた年功序列賃金が既に機能しなくなっていることはもはや自明のことであり、将来の収入が不透明なまま住宅ローンを組むような行為は多大なリスクを伴うギャンブルと化している状況です。

社会全体のパイが縮小する中でこれまでの体制を維持し続けることは困難であり、それでもなんとか制度を守ろうとする動きが生じるのは当然ですが、特定の権利を保持すれば、自動的にそれ以外のものは排除され、収奪され、遺棄されることとなります。

それが社会的弱者と言われる人たちに集中することは容易に想像できますが、今の日本で起きている貧困問題はまさにその顕著な例であり、それがカイシャ内で起きていることが中高年のリストラ、成果主義という名の賃金カット、非正規社員の増加といった一連の出来事であり、本書が明らかにし非難している内容でもあります。

同様のことはこれまでも様々に言われていたと思いますが、今の事態をここまで明確に切れ味鋭く指摘した本は無かったのではないでしょうか。著者の言葉は辛辣ですが、かなりことの本質を突いているように思われます。

最近の学生の就職に関して、どこの企業も欲しがる超優秀な学生と、何回面接を受けてもどこからも内定をもらえない大多数の普通の学生の二極化の話を聞きますが、これも本書の内容から理解できることであり、歪んだ社会の状況が見えてくると思います。このことは、有名企業にばかり殺到する現在の学生側のブランド意識にも問題がないとは言い切れませんが、それもまた閉ざされた情報と、世間や親たちの旧態依然としたいい会社に対する期待、そして著者の指摘する従順な羊を作る現在の教育制度の中においては当然の結果なのかも知れません。

カイシャで急増するメンタルトラブルの原因について著者はキャリアパスの途絶が主な原因であるとの見解を示しますが、それはかなり優秀で上昇志向の強い人たちの話であり、恐らく著者の周りではそうなのでしょうが、多くの人はやはり過剰な責任と過酷な業務によるプレッシャーと過労によるものであると思われ、誰かの賃金維持のための人員削減のようなリストラのやり方を早急に見直す必要性を強く感じます。

このように著者は二極化している超優秀な側の立ち場からのカイシャ批判を行っているようではありますが、その状況は普通の人間の立場からしても同じことであり、それは既得権を持ったカイシャの年長者が自分の保身のために若者たちを犠牲にしている状況であり、さらに組合と経営者と与党と野党とメディアがいずれも既得権者として共謀関係にあるというかなり絶望的な現実です。

しかし、ここで気になるのは、正社員を守る組合の立場についてですが、以前テレビで時短をして労働時間を減らし自由時間を増やす取り組みをしている小さな会社の取組みを紹介している番組があり、そこで残業代なしでは生活が成り立たないと会社に強く反対を唱えていたのが従業員の奥さんたちであったという事実から、既得権維持と言っても単に正社員ということではなく、その家族の生活維持が実体であるということです。

結局これは、性別役割分業による男性稼ぎ主モデルが根源にあり、これも著者の言う昭和的価値観の一つなのであり、社会全体に根強く存在するこの従来型の価値観がある限り、状況の打開は困難であると思われます。

著者も言及しているように年功序列が全て悪いというわけではなく、その功罪があるわけで、功としてはレールに乗ったものの生活を保障する安定性であり、それは仕事への集中と会社への忠誠心を形成しますが、同時にそれは罪としてレールに乗れないものを排除し、不安定な生活状況へと追いやるのみならず、環境の悪化次第では搾取の対象にさえなるという過酷な状況を生み出す装置になり得ます。

また、年長者の収奪システムは官庁やある程度の規模の企業ではそうだろうと思われますが、日本の多くを占める中小企業ではどうなのか、本書でも若干の記述があるように系列や下請という形で大企業の収奪システムの踏み台になっている可能性が高いように思われます。
これはまさに日本全体が一つのシステムとして上へ上へと利益を絞り上げるシステムになっているようであり、著者が例えたねずみ講のような仕組みというのは決して言い過ぎではないように思えます。
このような想定がどこまで実際に妥当するものなのか、検証データがないのであくまで想像に過ぎないのですが、今起きているあらゆる現象を組み合わせれば納得いく考えであり、全くの妄想とは言えないのではないでしょうか。

本書のタイトルにあるような新入社員の3割が辞めるというような状況は、社会的環境の影響が大きいと思われますが、現在ではどうなのでしょうか。現状の相当厳しい環境の下でも状況が変わらないのだとすれば、事態はかなり深刻でシステム自体の老朽化は見過ごせない状況であり、企業のあり方も日本の社会制度も根本から考えなおす必要があるのだと思います。

誰のせいでもなく時代のせいであるという著者の言葉はたぶんその通りなのだと思います。若者を踏み台にする強欲で恥知らずな老人どもは確かに存在するでしょうが、世の中の多くの人が自分たちの最善を目指して行動してきた結果が今の状況を作り出しているということでもあり、誰かの強欲や誰かの無責任な態度を責めてどうなる問題ではないのかもしれません。
しかし、今ではそれらの行動の結果がもたらした状況を多くの人が知ることができ、このまま同じことを続ければどうなるかの予測もできるまでに、多くの知見も経験も積んできているのだと思います。

虐げられた若者の憤激はこの先何処へ向かうのか、本書は時代の変わり目に存在する閉塞感という大きな壁に打ち込まれた、一つの楔のような本なのだと思います。

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<一言>
本書は著者の押さえ切れない現状への怒りが文章ににじみ出ている感じであり、感情的だと指摘されても仕方のない部分もあるかとは思います。
しかし、現在の旧態依然とした閉塞感に満ちた状況を作り出し、なおもそれを続けようとする年配者への著者の怒りも理解できるところであり、若い人のほとんどは共感できる内容なのではないでしょうか。
私もつい感化されて、長々と余計なことまで書いてしまいました。
著者のエリート然とした雰囲気はちょっと気になりますが、切れ味鋭い文章は訴求力が高いものと思われます。
この世代は面白い人が多いですね。

一段落。

ようやく、これまでAmazonレビュー用に書いたものをこちらへ載せ終わりましたので、これからは新たに書いたものを載せることになります。
なので、毎日ではなく、1週間か2週間おきくらいに掲載することになると思います。
まあ、特に誰かに読ませようというものでもなく、自分の整理のために書いているものなので、これも含めてまさしく独り言のようなものです。
Amazonのレビューの方も長すぎるものを、一部を除いてなるべく短く編集しなおしましたが、まだまだ長いと思われます。
短く適切に表現するというのは相当高度な技が必要で、私の実力ではどうしてもだらだらとした冗長度の高い文章になってしまいます。
それでもあちらは文字数に制約がありますが、こちらは特にないので、益々調子に乗って長々と書いてしまいそうです。
まあしょうがありません。
とりあえず一段落です。
そういえばカテゴリー分けをするつもりだったのに、やり方がよく分からなかったのでそのままになっていました。
これもそのうちやろうと思います。

「子どもの貧困から見えてくるもの。」

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)

最近は貧困問題についての報道もだいぶ増えてきており、本書に紹介されるような実情も大体認識の通りでした。そのマスコミなどで注目が集るようになった切っ掛けとして、本書が果たした役割もかなり大きいのではないかと思います。

本書を読んだ印象としては、子どもの貧困にも増して母子家庭差別の告発という要素が強いようにも感じられ、子どもの貧困問題の解決はもちろん必要なのですが、そもそもの問題として、なぜそれほどまでに母子家庭は差別されるのかといったところに問題の本質があるような気がして、そこを突き詰めていかないと結局は子どもの貧困問題の解決も難しいのではないかと感じます。
もちろん母子家庭のみが貧困問題の対象ではありませんし、父子家庭も高齢者の貧困も学歴格差も含めて、最も端的に社会的疎外の中心にあるのが母子家庭ではないかと思われます。
それは、モラル的な意味合いでの批判による社会的な罰であり、自業自得であるのだから援助などもってのほかといった感情的な要素が強く、根深い自己責任論や自身の余裕のなさに基づく最近の日本社会の不寛容さと相まって、母子家庭により一層の世間の厳しい目が向けられているような気がします。

具体的にどのような人がそのような厳しい意見を発しているのか、その人の価値観や生活背景を含めた詳しいデータがあれば、もう少し効果的な対処方法も可能になるのかも知れませんし、実は世間の人はこう思うだろうといった一般的な価値観で批判している場合も多いかもしれず、単にメディアによって作られた言説である場合も考えられます。

いずれにしても、経済的な不況の影響が社会的弱者といわれる人たちに最も顕著に現れるのは当然であり、その端的な例が子どもの貧困というわけですが、その背景にある母子家庭への社会的排除も、あまり省みられない父子家庭の困窮も、高齢独身女性の貧困も結局は性別役割分業というこれまでの価値観が強固に存在していることが背景にあり、貧困問題だけでなく少子高齢化も含めた多くの問題が、そのような価値観に基づく社会制度の持つ不自由さによって状況を悪化させていることは間違いありません。著者の、日本は欧州のような「失業問題」ではなく「ワーキング・プア」の問題であるという見方は端的にそのことを表しているものと思われます。

よってことは経済回復による金銭的な充足で解決できるような問題ではなく、これまで経済拡大により覆い隠されてきた価値観や制度といった根本的な構造的歪みを、これからのあるべき社会を見据えて組みかえる抜本的な見直しが必要なのだと思われます。
逆に、単なる経済対策で従来の基本構造を温存したままこの場をしのげば、再び根本的な問題は隠されたまま、これまでと同じことが繰返されることになります。
よって経済政策以前に、価値変化を伴う社会構造の転換を行う必要があり、そのキーワードが現在でもしばしば言われる、ワークライフバランスであったり、QOLといったものだと思いますが、それらがまだ経済成長阻害要因として後回しにされがちなのは、慣習と言う名の既得権益が社会に根強く残っているからなのではないかと考えられます。

本書でも指摘されているように、日本の政策は福祉の視点ではなく労働すなわち経済対策の視点で行われているように見えるというのはその通りであり、そのような政府や親のための「少子化対策」ではなく、子どもの幸せを考えた子どものための「子ども対策」を行って欲しいという著者の意見には強く賛同します。
これは、少子化対応の話だけではなく、教育にしても医療介護にしても同様であり、政府の進めるサービスの契約化と民営化の流れに顕著に現れていますが、財政の厳しさが背景にあるのもわかりますし、効率化やサービス改善の点で優れているかもしれませんが、ドライで温かみが薄いような感じがして、福祉の分野には向かないように思います。
個人的には、官でも民でもない公の視点が重要ではないかと考えます。

本書は、子どもの貧困の現実を明らかにし、その状況を何とかしたいという著者の切実な訴えの書であると同時に、日本人の子どもの必需品に対する支持の低さや、母子家庭への厳しい目に象徴される自己責任意識に基づく社会的不寛容さと、その背後にある男性原理に基づく社会システムの歪みの是正を迫る意識改革の書でもあると思います。

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<一言>
日本に限った話ではなく、格差において排除されるのは何処の国でも社会的弱者と相場が決まっており、逆に言えば権力や財力など力を持つものが既得権益固執することにより、その真逆にいる者がしわ寄せを食うという構図であり、カネを持った男の年寄りに対する金のない若者や女性および子どもがはじかれるという単純な話でもあります。
もちろん制度自体がそのような価値観を基に作られているのだから、制度だけを変えればいいという話でもなく、基になる価値観が変わらなければ何も変わらず、そもそも制度を変えることも困難なわけです。
保守が何を守るのかという問題も重要ですが、原理主義になると全体を滅ぼしかねないので、ある程度の妥協は必要なのだと思います。
価値観の問題に利害か絡むと理念はどこかへ吹き飛びます。

「これはグッドニュースなのか?」

グッド・ニュース―持続可能な社会はもう始まっている

グッド・ニュース―持続可能な社会はもう始まっている

本書で紹介される数々の素晴らしい活動は、逆にその裏でどれだけの環境破壊や汚染物質の製造、資源の浪費などが行われているかを知ることでもあり、その圧倒的な破壊力に無力感と絶望感を覚える方が大きく、とてもグッドニュースなどと喜んでいられない気持ちになります。しかしそれは、このような圧倒的な絶望感の中で長年闘ってきた人たちの見出した希望であり、確かな未来への道筋であるわけす。
けれども残念ながら、従来の価値観で環境破壊に加担する人たちは、このような本を手に取ることは無く、これまでどおり短期の経済原理に基づいた環境収奪を行っていくわけで、本書のメッセージは環境問題にある程度関心があり危機を感じているような人たちにしか届かないというジレンマがあるように思えます。
しかし、それは著者も十分わかっているものと思われ、まさに本書はそのような破滅的な現状をなんとかしたいと思っている人たちのために書かれた本であり、その意味でのグッドニュースであり、持続可能な新たな取り組みへの応援歌なのだと思われます。

著者はただやみくもに環境を保護しようといっているのではありません。自然の環境システムに従うことが長期的には経済的にも有利であり、人類の将来を守ることでもあることを訴えているものです。
そのような中で気になったのは、工業化された大規模農場よりも小規模の家族農場の方が環境負荷が低く生産性も高いといった言説です。環境負荷が低いののはわかりますが、生産性が高いというのは、昨今の効率を重視した農業の大規模化の動きとは相容れない内容であり、その真相を知りたいところです。

ただ忘れてはいけないのは、これらの素晴らしい活動の一方で、途上国などから大量の食料やエネルギーなどの資源を輸入して、結果的に環境破壊の元凶となっているのは日本を初めとした豊かな先進国であるということです。
最近の日本などでも、地球温暖化といったキーワードを軸にちょっとしたエコブーム程度の認識しかなく、本書に挙げられた一部の問題を含め、厖大な数の環境破壊が存在する現状をほとんど認識することがない人が大多数であるというのが現実ではないかと思われ、環境問題に対する危機意識の温度差の激しさを見る思いです。
ここには、情報がほとんど知らされない状況があり、大手企業をスポンサーとするメディアが情報を正確に伝えられないという状況も認識した上で、自身の行動の意味を把握できるリテラシーが必要な時代となっていることをもっと自覚する必要があるのだと思います。

確かに、本書のような危機意識を持って環境にやさしい活動を行っている人やそれらに賛同する人は確実に増加しているのだと思いますが、しかしその一方で、資源の浪費や環境破壊の現実は継続し、その根底にある経済原理に従い、グローバル化に伴う激しい競争の中で、効率と合理性を最優先にあくまでも短期的な利益を追求する従来型の企業は数多く存在します。
環境保全活動というのは、結局はそのような経済的合理性との闘いであり、環境や生活を守ろうとする行為は必ずと言っていいほど、企業の経済活動と競合関係にあるというのが、本書の内容からもよくわかることです。

国内における自分だけ損をしたくないという囚人のジレンマ状況を脱するには、政府の力をもってするしかないと思われ、環境意識の高い政府を持てれば、まだなんとか解決の可能性が存在すると思われます。しかし、世界を統合する政府の無い現在の状況では、互いの国家の利益を抑制するような枠組みの合意は非常に難しく、その端的な例が最近のCOP15に見られるような、自国の利益のみ重視したエゴ丸出しの各国の態度であり、地球的規模での問題解決の見通しはありません。
さらに、日本においては首相の掛け声のみで、産業界にはまるでやる気が見られない状況であり、まだまだ国民的意識の低さを感じざるを得ません。

本書の中の、地域資源の管理は地元住民に任せるべきであり、決して県や州政府などの中間組織に権限を与えてはいけないという言葉はたいへん示唆的です。
それは、必ず企業などの利益集団の影響を受け、公正な対処ができないからですが、本書の事例に見るように、実効性のある活動はどこもトップダウンではなくボトムアップであることから、当事者である地元の人たちが動かなければどうにもならないという事実を真摯に受け止める必要があるのだと思います。

これはまさに民主主義の実践であり、そのためには、何が真の幸せか、何によって幸福度を測るのかといった問いから価値観の変革を行い、草の根運動から解決を図っていくしかないのだと思われます。
まずは、近代の工業化により、何を得て何を失ったのかもう一度きちんと認識することが必要であり、今後自分たちは何を求めるのか、明確にしていく必要があるのだと思います。本書は既にそのような活動を始めている人たちの紹介でもあり、その人たちの一つの選択の結果としての、反グローバル化運動の意味もわかったような気がします。

この本はかなり厚いものですが、その厚さが意味するものは、我々の無知の大きさと将来に対する責任の重さなのかも知れません。

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<一言>
環境問題には前から関心がありますが、これほどその実践の難しさを実感するものもありません。
自分ひとりでどれだけ努力しても、身近に反環境的人間がいると全くの無駄になってしまうことの空しさはひとしおです。
しかし本書を初めとして環境問題に携わる人たちは、厖大な量の空しさを味わっているわけで、その忍耐強さにはただただ恐れ入るばかりです。
相当の使命感を持ってやっているのでしょうが、過激な環境主義者とのバランスの取り方も難しいと思われ、エコとエゴの問題も大きな課題のように思われます。
所詮は人間のための持続可能性なのですし、地球にやさしいなどという言葉は白々しく感じます。
環境問題をあまり美化しすぎないことが必要なのかも知れません。

「恵まれた苦労人シュンペーター。」

シュンペーター―孤高の経済学者 (岩波新書)

シュンペーター―孤高の経済学者 (岩波新書)

シュンペーターといえば、名前は聞いたことがあっても具体的にどういうことをした人なのかは知らない人が多いのではないでしょうか。経済学者であることは知っていても、企業の技術革新に関する理論を提唱したくらいしか知らない人がほとんどではないかと思います。私だけかも知れませんが。
本書はシュンペーターという人が何をなし、どのような人であったのか知るのに、手ごろで格好の本だと思います。ただし、マルクスケインズほど注目されているわけではないので、それほど知りたいという人はいないかも知れませんが。私は、著者である伊東先生の『ケインズ』が読みやすくて面白かったので、本書も何か得られるのではないかと思い読んでみました。

本書は、前半でシュンペーターの生涯を追いながら、その業績や様々な人との出会いを振り返る中で、その人となりを浮き彫りにしていき、後半では彼の主張した内容について、その思想と理論を解説する構成となっています。
シュンペーターを語るに重要な人々として登場するのが、同時代のライバル(?)ケインズであり、尊敬はするが乗越える対象としてのワルラスであり、価値観の異なる偉人マックス・ウェーバーといった人々であり、さらにその方法論のモデルとなったベルグソンなども含めて、実に多様で偉大な人々が関わりをもっていたことがわかります。

特にケインズとの関係は微妙で、シュンペーターケインズを高く評価するけれども自分の理論には取り入れず、またケインズの思想に様々な批判を行っていたようすが、一方のケインズはほとんどシュンペーターのことは眼中に無かったようで、シュンペーターの一方的な片思いというか、勝手に嫉妬心に燃えていたという感じです。

両者は非常に対照的であったようで、実践家ケインズに対してシュンペーターは理論家であり、ケインズ有効需要理論に対して、シュンペーターは供給における企業のイノベーションを重視した考えということであり、そもそも視点が大きく違っていたということのようです。

シュンペーターを特徴付けるのは、その早熟性で、かなり若くして高度な主要論文を書き、また、教授になったのも早く、その天才ぶりが窺えますが、同時にそれは彼のプライドの高さに結びついているようにも見えます。
本書で見る限り、プライドから来る自信の強さや、たいへんなイギリス好みなど気取った感じで、厭味な人物にも思えますが、優れた教師としての側面や、彼を慕う人の多さなどから、変人というわけでもなさそうで、どんな人なのかよくわかりません。
しかし何かと人との対立や齟齬が多く、ウェーバーとの応酬や、友人バウアーとの対立など、付き合いにくい人であったのかもしれません。

ただし、かのマックス・ウェーバーとの交流についての話は、当時の情勢やウェーバーという人を知る意味でも興味深いエピソードでした。

社会主義については、その良し悪しは別として、論理的に資本主義の発展過程における当然の帰結として、資本主義は衰退し社会主義へと移行せざるをえないという考えであったようです。そして、ソ連社会主義などではなく単なる軍事独裁制にすぎず、工業化の進んだドイツこそが社会主義になるにふさわしいと思っていたようで、オーストリアの大蔵大臣になった際に経済的条件の整わないオーストリアでは、社会化よりもまずは資本主義的復興が先だと主張し、周りと対立した末に辞めさられることになったようです。

その後、オーストリアは経済危機を迎えますが、それを防ぐ手立ても知恵もあったのに、それを活かすための政治力の無かったシュンペーターは、政治的にもその後実業的にも挫折し、研究者として、さらに教育者として実績を積んでいきます。

シュンペーターの経済の捉え方は、彼のマーシャル批判からその特徴がわかると思われますが、マーシャルの経済は連続的に成長するという有機体的発展モデルに対して、シュンペーターは企業者のイノベーションによる非連続的な経済発展を行うという飛躍的経済論であるということです。さらに、交換経済の監督者としての銀行の役割を、真の「資本家」であるとして、かなり重視していたようです。
このような、経済の動的分析はダイナミックな経済活動の場であるアメリカにおいてこそ適合性が高いと思われ、そういう意味で彼がアメリカに渡り、その地を研究の基盤としたのは当然であり、相応しいことだったのだと思われます。

また、資本主義過程の分析は景気循環の分析に他ならないとしたシュンペーターは、不況は資本主義の正常な適応過程であると喝破し、雇用は有効需要によって決まるとするケインズの社会政策的な経済理論とは相容れず、理論と政策は別であるとして、ケインズの理論を批判したようです。これは、政策に反映されない経済学には何の意味も無いと、学生たちにはすこぶる評判が悪かったようです。

彼の資本主義衰退論は、マルクスの資本主義自身の抱える矛盾の故に崩壊するとしたのとは異なり、資本主義の成功の結果崩壊するとしており、これは、経済領域と制度や歴史的変化などの非経済領域との長期的な相互干渉による考察を行ったものであり、ここに、現代経済学に欠けているものを見出せると著者は評価します。

また、彼の帝国主義論は、ドイツ帝国主義の抽出に他ならず、ドイツ帝国主義を批判することから帝国主義批判を行っているようです。それは資本主義と帝国主義を分離し、帝国主義の背後に、農村に残るユンカーによる封建的風土からなる軍事大国化があり、保護関税に見るように、利益を得るのは大地主などの政治的有力者だけで、それらが帝国主義を強化し、それが資本主義の発展を抑えている、よって、イギリスのように資本主義が発展すれば、人々は反帝国主義運動を起こすに違いないという考えのようです。
しかし、彼の議論はドイツ帝国主義に偏より、またイギリスを理想化しすぎており、世界市場の再分割の視点が欠如していると同時に、ドイツ金融の持つ資本主義における発展的意義について捉え切れていなかったなどの問題点もあるようです。なぜ、ソ連は社会帝国主義へと展開したのか、それはシュンペーターの指摘した市民社会の未成熟という問題に関係するようです。

彼は、生涯を通じて資本主義とは何かを問い続けた人であるようです。
経済においてもっとも大切なのは技術革新であることを主張し、ケインズの主張するような需要操作だけで、供給サイドの革新がなければ、国際競争に敗れてしまうことを認識させたという点が今日的に意義があるということのようです。
また本書では、ウィーンという自由な土地柄が彼の思想に与えた影響を重視しており、彼の帝国主義論がドイツ帝国主義の古い封建的性格から来る帝国主義戦争を批判する姿勢から、現実の特質をつかみ出す経済学としての意義を強調します。

他の本でもそうですが、著者は人物描写が上手く、あたかも見てきたかのような会話で生き生きと描き出し、ちょっと司馬遼太郎を思わせる文章、というと言い過ぎでしょうか。しかし、経済理論の話では、シュンペーター自身の表現が分かりにくいというということもあるのでしょうが、内容がちょっと掴みにくいように思われました。
また、シュンペーターの経済学的意義というのもいまひとつ感じられず、そんなにすごい人に思えないのは、技術革新の考えが今では当たり前のことになっていて、当時においては革新的な考えだったということが実感できないからなのかも知れません。
できれば、もう少し現代的意義というのを掘り下げた説明が欲しいと思いました。

総じて、シュンペーターという人は、政治的実業的挫折や最愛の奥さんとの死別、同時代の優れた経済学者ケインズへの嫉妬など、恵まれた才能の持ち主である一方で、かなりの苦労人であったことが窺えます。

いずれにしても、シュンペーターという人を知る格好の入門書と思います。

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<一言>
まとめるのが難しくだらだらと書いてしまいました。
かなり人物像を中心とした本であり、伝記に近い内容かも知れません。
なのでその人となりを知るには優れていると思いますが、学問的な事項については概略的な内容だと思うので、他の本もいろいろ当たってみるべきなのだと思われます。
ただ、ケインズほどの魅力を感じないのは仕方の無いことかもしれません。

「きれいごとではありません。」

スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」 (朝日選書792)

スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」 (朝日選書792)

本書は、スウェーデン大使館に長年勤務していた、環境問題のスペシャリストによる、現在の社会のおかれた危機的状況への警告の書であり、環境問題は理想主義などではなく、目の前に確実に存在する破滅の危機であり、冷静に現実的な対応をするならば、スウェーデンのように振舞わざるを得ないという話です。

著者は、現在の最も大きな問題は少子高齢化と環境問題であり、現在の日本の経済規模の拡大を前提とした社会システムでは、「不安でいっぱいなのに危機感は薄い」という状況の中、経済成長と景気回復を追い求めて、不毛な議論を続けるばかりだと指摘します。

そして、必要なのは新しいビジョンとその達成方法であるのに、日本の政府は従来の公害対策の延長に過ぎない環境対策に終始して問題の先送りを行っていると厳しく批判し、一刻も早く現実を見つめて、持続可能な社会へ向けての環境政策を行わなければならないと主張します。

重要なのは、環境問題とは地球温暖化や環境汚染などのことではなく、その根本は現在の経済システムの問題であるとの認識をきちんと持つことであり、そうでなければまともな政策などできないとの主張です。

そもそも現在の経済学が、自然環境などのお金以外の要素をまともに考慮していないことが問題であり、地球が有限であるという前提がすっぽり抜け落ちたまま、自然や人間の許容可能な限界量から来る経済的制約があることを無視して経済拡大のみを追い、経済成長がいつまで可能なのかという基本的な議論すらされないことを問いただします。

さらに、日本政府の環境対策は個人に努力に任せすぎである点を指摘し、もやは個人レベルでどうにかなる問題ではなく、政府がイニシアチブを取り、国家としての方策を取らねばどうしようもない状況であることを強調します。

そこで著者がモデルとするのが、福祉国家であり環境先進国でもあるスウェーデンですが、本書ではかなり完全無欠の理想国家として取り上げられており、最近読んだ『福祉国家の闘い』という本による、スウェーデンも多くの問題を抱えた普通の国であるという印象とは大きく異なり、このギャップをどう捉えればいいのか迷うところです。

確かに本書を読む限り、その理念や政策の先駆性、実行力の高さなど群を抜いていることがわかり、いろいろ問題もあったが既に解決済みといったニュアンスなので、もしかしたら、日本の政策の不備を指摘するあまり、スウェーデンの優れた点を過度にピックアップしている可能性もあります。それでも、その合理的な政策や制度、先進的な概念など優れたモデル国家であることは確かで、既に「人にやさしい国家」から「人にも環境にもやさしい国家」といった次のステップへと踏み出しており、ようやくコンクリートから人へ」と舵をきろうとしている日本も多いに学ぶべき点があるのは確かです。

著者もいうように、よく言われる、国家規模が違うから日本ではうまくいかないという指摘よりも、国民の意識と民主主義の成熟度の違いが大きいというのはその通りだと思われ、私も含めて日本における環境問題に関する意識は相当に低いのだと思われます。

それは日本の科学技術の状況にも表れているようで、スウェーデンにおける国家ビジョン策定に果たす科学者の役割がかなり大きいというのに対し、日本では科学者はどうも経済成長に関わる研究費の要請しか見られないようで、あまり地球的な理念で行動しているようには見えません。人類の英知の結集である科学者には、政治的ビジネス的な発言でなく、もっと理念的で理想的な深みのある未来を語ってもらいたいというのが私の希望です。この辺が、現在の科学離れと関係しているように思えて仕方がありません。

自然信仰やもったいない精神など日本にも民族としての素地があるはずですが、どうも経済原理に覆い隠されている感じで、自民党政権下の大型公共事業による利権政治があまりにも長く続きすぎた結果、古来から育まれてきた和の精神を、ビジョンとして転化するための政治的な素地がないように思われます。これは、既存のシステムの中で自分で考えることをせずに、全てを政治家任せにしてきた自分たちの責任でもあるのですが。

現実問題として、経済拡大路線の企業優先主義は未だに変わらず、さらに、現在の不況下では環境関連ビジネスへの転換がせいぜいで、著者の主張する根本的な環境政策の実現はかなり難しいと思われます。
しかし、せめて自分たちの行っていることの意味を自覚する必要があるのだと思われ、そういう意味でも本書は、現在のシステムに多少とも疑問を持っている人には大きく目を開かせてくれる、刺激的な本なのだと思います。

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<一言>
なんだかんだ言っても、やはりスウェーデンの理念先行的な国のあり方というのは間違いないようで、自然を愛する国民性というのは大変魅力的に思えます。
日本も自然に対する思い入れは深いはずですが、それを上回る経済合理性が強く、最近いくらか変わってきたようですが、はやりどうしても環境よりお金を選択する傾向が強いように思えます。
本書における地球温暖化が問題なのではなく、経済原理が問題だというのは全くその通りだと思いますが、聞こえてくるのはいかにして経済成長を行うかといった話ばかりで、年金問題も医療費の増大も増税も皆お金の話で、確かにお金が重要なのはわかりますが、あまりにお金に頼りすぎではないかと不安になってきます。
メディアにしても売れるための扇情的な報道ばかりで、もっと冷静に合理的な判断のできる土壌はないものか、何でも経済的に還元される社会に絶望した!、とでも言いたくなる気持ちです。