「あまり無関心ではいられません。」

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

国際政治など我々一般庶民には縁遠い話であって、政治家がなんとかやってくれるだろうといった意識しかありませんが、実際には戦争にまで発展する場合もあり、現在のグローバル化の進んだ世界では、軍事的な面ばかりでなく、経済摩擦や環境問題、または世界的な金融危機といった国際的な事象が日常生活へ与える影響も格段に増加し、通信技術の発達も相まって、それらを直接的に実感することも多くなっており、あまり無関心ではいられなくなってきていると思われます。
そこで、そもそも国際政治とは何であるのか、どのように考えればいいのか、自分はどのように関わればいいのか、といった基本的な疑問に対して、何らかのヒントになればと思い本書を読んでみました。

本書の序章では、満州事変当時の日本が、欧米列強の、高い理想を掲げながら自国の利益を貪欲に追求する姿を、帝国主義の偽善であると批判しながら、自身は周りを省みない独善へと陥っていった様子を振り返り、妥協の余地のない独善は害悪以外の何ものでもなく、偽善の方がまだましであるという見解を示し、この欧米諸国の「偽善」がどのような論理で展開されることになるのかという視点から、近代ヨーロッパを起源とする国家の概念から国際政治へと繋がる、世界的な社会変動の様子を解き明かしていきます。

その際に著者は、国際政治の三つの位相として「主権国家体制」「国際共同体」「世界市民主義」を挙げ、それぞれを象徴する人物から、ホッブス的伝統、グロティウス的伝統、カント的伝統におおよそ該当することを示し、それら各々から導かれる、「国家相互の主権を尊重し内政に干渉すべきでない」「国家間の協力を増進すべき」「国家の枠を離れて世界の統一に向かうべき」といった規範がお互いを縛りあう状況を、国際政治のトリレンマと呼び、ここにおいて最善の政策を模索していく作業が国際政治の本義であることを示します。そしてこの中で、自国の利益と世界的な公共利益との妥協から生まれるのが「偽善」的行為であり、その前提となる国政政治のトリレンマを共有していない日本は、今日でも独善へと暴走してしまう危険性があることを指摘しています。

このような前提を基に、国際政治という概念が近代ヨーロッパに生まれた経緯を、メルカトルの地図とメートル法グリニッジ標準時の採用に代表される、人々の空間時間の認識法の転換をその根源として挙げ、その上で先の国際政治の三つの位相のそれぞれの基盤となる安全保障、政治経済、価値意識といった観点からその詳細を見ていきます。

その最も基本となる主権国家の成立は、ホッブスの恐怖の外部化という概念から発生するとし、自然状態にある人間が恒常的な闘争状態の恐怖から抜け出すために、個人の主権を国家にゆだねることで国家の正当性が確保され、よって国民の安全の確保が国家の役割となることから、国家の基本機能である安全保障の概念が導かれます。

これが国家間の闘争に拡大されたときに発生する、集団安全保障と国家の主権の問題は複雑であり、国連の実効性の難しさや、軍事力の政治的意味、核の抑止力の限界といった様々な課題と共に、冷戦終結後に増加した内戦や民族紛争の解決が絶望的に困難であるという事実は、結局は主権国家体制の安定が必要という基本に立ち戻らせます。

また、ここでの平和と健康の類似性という議論は興味深く、テロは社会のガンのようなものという比喩はその通りだと思われ、テロに対する欧米の対応がガンに対する西洋医学的アプローチと重なって見え、ちょうど最近NHKで放送していたガンに関する番組での、「ガンとは生命そのものである」といった内容とも相まって、テロとの戦いとはどいうことなのか、ただ排除すればいいのかなど、改めて考えさせられました。

さらに、主権国家がいかに協力して国際共同体へと至るのか、経済を通じて政治の改善を目論んだアダム・スミスの政治経済から、「効用」を原理とするマーシャルの自由主義経済への移行に伴う世界経済の拡大は、通信技術の発展を背景とする国境のない「仮想の地球社会」を作り出し、社会主義国の破綻と市場経済化への移行も相まって、厖大な投機マネーの循環するグローバル経済へと展開するに至り、新しい地球的統治が必要とされ数々の国際機関が作られますが、そのような重層化する多数の国際的枠組みの中で主権国家の役割は、グローバル経済と国民経済との橋渡しへと変容していきます。

要するに、世界的経済統合の局面にある現在でも、国家の存在意義は失われておらず、国民経済としてのまとまりは依然として重要なのであり、それ故に国家の機能を確立するための途上国援助は地球的統治のためにも必要であるけれど、同時にそれは地球環境問題に典型的に見られるような、国家エゴへと繋がるものでもあるということです。

では地球市民意識の形成は可能なのか、その究極の目標ともいえるカントの目指した普遍的倫理の浸透による永久的な平和の実現は、強制された民主化や、人権の国際的保障が国家へ与える影響、紛争国への人道的介入のような主権国家体制の原理と普遍的な倫理の対立のように、国家意識と地球意識の間に大きな溝が存在し、未だ人類が深いレベルでの価値観の共有に至らないまま、「仮想の地球社会」のみが拡大しつつある状況です。

このような中で著者は、永久平和のためには、意味や価値の相互作用に満ちた「豊穣な世界市民主義」と、世界市民主義を希求しつつ「仮想の地球社会」が醸成する地球意識に基づいた「慎重な普遍主義」の融合が必要であり、たとえ実現不可能であっても、永遠の平和の可能性を信じることが、実際の平和へと繋がる唯一の道であることを主張します。

そして、自らを保守的だと評する著者は、「仮想の地球社会」が生み出す地球規模での世界政治ではなく、多数の主権国家同士のせめぎ合いからなる国際政治が、現実的に妥当であるとし、その国際政治の実際的な運営に必要なのは、非現実的な「友愛」よりも、冴えない「寛容」であることを、伝統性を重視する立場から提唱します。

本書は、国際政治というあまりに大きなテーマを主題としており、政治に不案内な私にはその内容の把握はとても十分とはいきませんが、それでも、現代における軍事力の意味、経済格差と環境問題、さらには民主主義と人権問題といった多岐に渡る課題を考えるヒントがちりばめられており、自分の狭い考え方を大きく広げてもらったような気がします。個人的には、国家に転化した自分の内面の恐怖といかに向き合い、共生することができるのかが、国際政治を考えることの第一歩であるように思われました。

何もかもが不確実な現在において、少しでも確かな明日を生きるために、大局的に世界を見る視点を得られる、ひとつの物差しのような本ではないかと思います。

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<一言>
新書としては厚めで、内容もハードで、ちょっと読むのがたいへんでした。
まとめも文章が長くなり、たいへん読みにくくなってしまいました。
まあ、自分としてはこんなものです。