「ケインズが真に求めていたもの。」

<転記 2009.7.19 レビュー短縮>

本書は、著者の前著『ケインズ』から40年余り経過して、新たな研究成果を踏まえ、いわゆるケインズ主義がケインズ周囲の人々の数々の誤りや誤解により、ケインズの本意とは異なる形で展開していったことを、様々な文献を基に指摘し、さらにその誤解の上に立った日本の政策が、当然のごとく失敗した様子も明らかにしています。

ケインズが、アダム・スミス以来の道徳哲学の系譜に属することは、なんとなくわかっていましたが、本書でそのことが改めて明確になり、後のケインズの言動が単なる経済学者の枠を越え、社会正義の実践者としての行為が目立つことも納得がいくところです。

ケインズの目指すところは、経済的効率と、社会的公正、さらに個人的自由の3つの結合であったとのことですが、ケインズが大きく影響を受けたとされる哲学者ムーアと政治学者バークから、それぞれ「功利主義批判」と「手段としての経済学という考え」を学んだようです。
ケインズは、経済学者というより政治家である、という批判もされることがあるようですが、自分の目指すよりよい社会の実現のために、経済学という枠に留まることなく様々な手段を通して実践を行っていたに過ぎないのだと思われます。

本書では、ケインズの主著である『一般理論』について、再度ケインズの理論を検証し、新古典派経済学との比較から新古典派の誤りを明確にし、ケインズの生み出した新しい経済学の特徴を明らかにしていきます。
その中には、新古典派が前提としている供給が需要を生み出すとする「セーの法則」が完全雇用を生み出し、それを元に大量失業を説明しようとするような論理矛盾を引き起こしていることを指摘するなど、新古典派の論理体系がかなり脆弱な基盤の基に組み上げられていることを明らかにすると共に、反ケインズ理論への反証を行います。
他にも新古典派の、利子率が貯蓄高を決めるであるとか、労働市場分析の不十分さであるとか、雇用理論に決定不可能な物価水準を入れ込んだりとか、要するに、新古典派の理論は現実とはかけ離れた机上の空論であることを示したのがケインズの『一般理論』であるということのようです。

またその『一般理論』も、ケインズの主張をそのまま組み込んだものではなく、新古典派への妥協の部分が含まれ、それが後のケインズ批判へと繋がることなども、なぜそのようなことになってしまったかを具体的な経緯を示して解説しています。

ケインズ理論の中で政策的に重要な位置を占める、公共投資における乗数効果で経済活性化に繋がるという思想は、どうやらケインズの考える投資と、政策上の投資の違いによるもののようで、公共投資が景気回復に繋がるためには実際には様々な条件が必要であり、単純に適用すれば単に赤字国債を増やすだけに終わるということも指摘しています。
そしてマクロ経済学の基本ともいえる、ヒックスのIS−LM分析は誤りであり、そこから導かれる貨幣供給量増加による景気対策も誤った政策であることを示します。

日本の景気対策公共投資にしても貨幣供給量増加にしても、使用条件を無視したり、誤った前提による誤った使い方をしたため、いずれも効果がないばかりか、膨大な量の借金を増やすだけになっているのは、当然の帰結ということが改めてわかります。

本書は、最近良く聞くケインズ批判に対する反論の書であるともいえますが、さらにケインズの道徳科学としての経済学がアダム・スミス、さらにはアリストテレスにまで遡る倫理学の系譜に従っているということを知らしめることで、経済学とはそもそも何かを問うものでもあり、ケインズが真に求めていたものを明らかにしています。

とても刺激的な内容であり、少しでも経済に興味があるならば是非目を通すべき本であると思われます。
ただし、経済学の基礎知識を必要とするのは、やはり経済学という特殊な分野の宿命なのかもしれません。
それでも筆者の文章は読みやすく、説明もわかりやすいため、丁寧に読めば割と理解可能ではないかと思えました。
ケインズへの理解を深めるための良書だと思います。

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<一言>
ケインズが好まれるのは、やはりその実践的な態度なのであり、単なる学問としての経済学ではなく、いかに現実をよりよくするかという、真摯な姿勢があるからなのだと思います。
しかし、本当にケインズはそんな人だったのか、他にもいろいろ読んでみる必要があると思いますし、つい避けてしまう理論の方も、もっときちんと理解する必要があるとは思っています。