「こんな日本に誰がした?」

<非掲載 2009.11 レビュー短縮>

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

本書の主張を一言でいうなら、「財源は経済成長で確保せよ」ということになるのだと思われます。要するに持続的に緩やかなインフレを起こすことによって、経済規模を拡大していくことを政策的に行うみたいですが、以前から同様の提言はいろいろ出されていたように思います。評判の悪かった(たぶん)インフレターゲット論との違いなどよくわかりませんが、紙幣の増発を行うべきとの意見は今でもしばしば聞かれることだと思います。
確か、緩やかなインフレを目指すというのは、竹中平蔵氏も言っていたことだと思います。著者の飯田さんは、何かと批判される小泉構造改革に全面的に反対というわけではなく、方向性は良いけれども時期を間違ったという主張を行っているようです。私も、小泉改革はそれなりの意義があったのだと思っています。

本書の構成としては、貧困撲滅の立場からの雨宮さんの疑問に対して、飯田さんがマクロ経済学の立場からその疑問に答えるというという形の対談形式で話が進みます。雨宮さんは、たまにテレビでお見かけしますが、なんだかいつもおじ様たちにやりこめられているようなイメージしかなかったです。プレカリアートというのも、今回初めて認識した言葉ですが、認知度も言葉の響きとしても個人的にはいまいちという感じがします。

財源が減ったのはお金持ちの税金を安くしたからというのは、確かに飯田さんが言うようにメディアなどではあまり取り上げられない感じがしますが、なぜなのでしょうか。メディア戦略的な話も出てきますが、メディア自身が当事者として金持の側にいるせいなのかも知れません。累進課税を以前の水準に戻すとか、相続税の増加といった考えに反対する人たちは誰で、どのような理由によるものなのか、もちろんお金持ちの人たちなのでしょうが、その実体が良く見えないので、詳しく知りたいところです。

貧困の問題は世代間の問題ではなく、それぞれの世代にあまねく存在していることをもっと認識して欲しいということと、けれども世代内での貧困バッシングの方が酷いのかもしれないという話は、問題解決の難しさを感じさせます。世代内のバッシングについては、両者の意見が分かれていましたが、飯田さんの楽観論よりは、雨宮さんの悲観論の方が、ネットなどを見る限りでは強いような気がしますが、どうなのでしょう。

全般的に飯田さんは楽観的で、雨宮さんは悲観的なトーンなのは、性格の違いもあるのでしょうが、それぞれの活動領域からすれば当然なのかもしれません。社会の中で虐げられきた人たちの中で活動する雨宮さんは、散々バッシングを受けてきており、徒労感もかなり大きいのではないかと思われます。お仲間の湯浅さんにも、同様の悲壮感が漂っている感じがありますが、それが益々バッシングを誘っているのかも知れません。
対する飯田さんは気鋭の経済学者として、貧困を打破し経済を活性化するためのアグレッシブな提言を活発に行うエネルギーのようなものを感じますし、それが、経済成長という前向きな提言に結びついているのだとも思われます。ただし、雨宮さんの現場に基づく切実な重い言葉に対して、飯田さんの明るい前向きな言葉はどうしても軽く感じられ、ロジカルな思考も合理的で説得的ですが、テクニカルな感じで、どうも素直に心に響いてこない感じがしてしまいます。

反貧困の立場の経済成長批判は、経済成長の果実が高所得層で留まり貧困層までまわってこないことへの不信感が大きいとの見解ですが、確かにそのような面もあると思います。ただ、もっと広い層での経済成長へのマイナスイメージは、日本の高度成長期に失ってきた、自然環境や地域社会、家族の絆、さらには受験競争の激化に伴う様々な問題など、もちろん経済成長だけが理由ではないのでしょうが、高度成長期に生じた問題群が経済成長と関連付けられていることは間違いなく、もはやそのような意味での経済成長は懲り懲りだという意識が強いのだと思われます。

経済成長が財政を助けるのはその通りでしょうが、これまでの大量生産大量消費や資源浪費型の環境負荷の高い産業から、エネルギー消費の低い環境にもやさしい、サービスを主体とした産業へのパラダイムシフトを前提とした経済成長を提唱しないと、時代に逆行しているようなイメージを持たれしまう気がします。もちろん、景気がいいほうが良いでしょうし、経済成長により失業を初めとした経済的な多くの問題は解決するかもしれませんが、どうもそれだけで済む問題ではないような気がします。

働くことの意味も含めて、生きるということを真摯に考えた政策でないと、単なる財源確保のための労働力増強政策といった、少子化が将来の経済維持に不利なので女性に子どもを生ませる的な発想と同様の、目的本位で心の無いこれまでのよくある政策と同じに成りかねませんし、これからの成熟した社会のあり方を考える上でも、貧困問題を単なる労働問題として片付けるようなことはしてはならないと思います。

かつての日本の状況からも、経済成長が様々な問題を見え難くして、構造的な問題の温床になることを忘れてはならないと思います。私的には、経済成長を否定はしませんが、経済成長に頼るのはある意味危険なこととも思われ、景気の良し悪しにあまり左右されない、しっかりとした社会基盤を作ることが必要ではないかと考えます。でも、結局財源はどうするのかという問題に戻ってしまうのですが。そもそも、経済成長の是非とインフレ政策の是非の話は別の問題だと思われ、きちんと整理した議論が必要な気がします。

お二人は、問題意識は共有しているようですが、立ち位置の違いから議論がかみ合ってないようにも思えました。

飯田さんの他の著書など読んでいないので、その主張の詳細は把握していませんが、本書では雨宮さんの言説に合わせた形で話を展開しているので、飯田さん自身の本当の主張が明確に見えないような気がします。
本書はとても読みやすく、現代の貧困問題についての知られざる実像が垣間見えますが、もう少し具体的な形で政策的な提言もさらに明確にして、インフレ政策への批判も多々あるようなので、それらへの反論も含めて、飯田さんの主張を新書の形態で一冊にまとめて欲しいと思いました。

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<一言>
タイトルはあまり本書と関係ありませんが、読んでいるうちに頭に浮かんできました。
経済政策で景気を良くするという考えは当たり前のようにありますが、これはどこまで有効なものなのか疑わしく感じます。
もちろん巨大な額のお金が動くのですから経済への影響は大きいですし、確かにGDPを引き上げる効果もあるだろうとは思います。
しかしグローバル化の進んだ現在におけるGDPの増加は、日本でも韓国でもそうですが、雇用なき景気上昇となり、一般庶民の景気感はあまり上がらないものになりがちです。
それでも税収が増すからいいのだという見方もわかりますし、政府や企業そして国民にとってもいいことなのだとは思われますが、それは従来のモデルと同じであって、構造的な問題をそのまま残してしまう危険があると思われます。
その最大のものは少子化の原因でもある男性稼ぎ手モデルであり、狭い家族規範であるように思います。
同じく、環境収奪的な経済も限界があることを無視し続けることもできません。
今のままの社会構造と価値観を残したままで、持続可能で希望ある社会が実現するとは思えません。