「今こそ社会保障の議論が必要です。」

<転記 2009.10.11 >

日本の社会保障 (岩波新書)

日本の社会保障 (岩波新書)

本書の冒頭にあるように、社会保障の本来の意味は「社会的な悩みを取り除く」ということであり、個人ではなく社会が原因となって起きた問題を社会が手当てすることが求められるものです。これは憲法25条の基本的人権の尊重でも規定され、誰もが人間として最低限度の生活を送れることを保障されるはずですが、最近では行き過ぎた自己責任主義によって、個人では対応不可能であり、本来は政府や自治体が対応すべき問題についても個人の努力不足が原因とされ、悲惨な生活を送らざるを得ない人たちが急増しているのは、もはや周知の事実です。
本書は、このような状況へと至った日本の社会保障制度に対し、政府が未だに場当たり的な政策しか打ち出せない状況を批判する視点から、現在の日本の社会保障の状況を明らかにし、社会保障の原理を説き明かしながら、今後のあるべき社会保障の姿を考えていく、日本の社会保障を正面から問い直す本です。
書かれたのは1998年頃ですが、著者の一連の著作の骨格といえるような内容だと思われ、著者の一貫した主張は、その後の社会的変遷により風化することなく、少子高齢化の進展と経済格差の拡大、現代的貧困の増加する現在において、益々重要性を増していると思われます。

著者はまず「福祉国家」の歴史的な展開から、「所得の再分配」としての「福祉」と「リスクの分散」としての「社会保険」からなる社会保障の概念を示し、その社会保障を、産業化に伴って衰退した伝統的共同体の相互扶助に代わって国家が実施するようになり、さらに経済社会の成熟化に伴い「福祉と経済成長の両立」から「負担としての福祉」へと変容していった状況を解説します。
この「福祉国家」という概念については、「ナショナリズムによる閉鎖性」という批判と、「経済拡大を前提としていることに対する環境への負担」という2つの批判があり、著者はこれらを視野にいれた、これからの「福祉国家」像を検討していきます。

福祉国家」が、歴史的に主にヨーロッパにおいて成立した概念であるのに対し、日本の福祉は、戦後の経済発展を第一とする政策の中で、経済政策の一部として組み込まれた経緯から、日本株式会社の厚生部門として経済産業に携わる人員の育成確保のために導入された様子を示し、先行して整備された医療制度など理想的な途上国型モデルとして機能している反面、成熟型医療への転換の遅れが目立ち、遅れて整備された年金については、貯蓄保険機能と所得再分配機能の混在による複雑化、そして福祉に関しては社会保険を中心に社会保障制度が組み立てられた経緯から、大きい国保と弱い福祉サービスといったアンバランスな状態となっている、などの問題を指摘します。
特に福祉サービスについては、今後さらに進む高齢化に伴い、深刻化する社会的入院の問題も含めて、高齢者介護から対人社会サービスへの展開といった根本的な検討も必要であり、医療、年金、福祉といった福祉分野の総合的な全体像を早急に構築する必要性を訴えます。

このような、高度成長期に明確な理念もなく場当たり的に整備されてきた日本の社会保障は、多くの矛盾と不都合を抱え、その見直しが叫ばれる中、どのように改築すべきなのか、著者は社会保障の原理に立ち戻って考えます。
経済学的視点からは、効率性と公平性を基に、医療と福祉を強化し年金のスリム化を目指すべきとし、また、経済原理で割り切れない「公平性の根拠付け」と「共同体の位置づけ」、さらに「グローバライゼーション下での国家の役割」といった問題に関しては倫理学的視点から検討し、個人と共同体と国家の関係を論じる中から、福祉国家の概念は「地球レベルでの社会保障」を視野に入れた福祉世界の概念にまで拡張されるべき、との壮大な構想を展開します。
一見空想的なこのような構想も、現在EUが体現しようとしていることであり、ゆくゆくは国家を越えた世界的な規模で実現することを視野に入れる時期が来ると想定しています。
また、福祉においても環境親和的な社会を目指すことを前提とし、これまでの右肩上がりの経済拡大路線から、高齢化に伴う成熟社会を構想していくことが必要だとし、そこに「定常型社会」というキー概念を提唱します。これについては、著者の別書『定常型社会』という本に論を移す事になりますが、基本概念は本書の内容と変わりありません。

これらの議論を踏まえた著者の日本の社会保障制度に対する提言は、具体的かつ説得的であり、より多くの議論を踏まえた上で是非実際の政策に反映していって欲しいと思う次第です。
そのためにも今必要なことは、著者の主張するように『医療、年金、福祉にわたる社会保障の全体を視野に収めた上で、各々の分野の公私の役割分担のあり方を明らかにしながら、社会保障全体の最終的な将来像についての「基本的な選択肢」を示し、議論を深めていく作業を行う』ことであるというのは全くその通りだと思います。

本書は、時代に対応できなくなっている現在の日本の社会保障制度を根本から考え直すために、基本となる社会保障の原理と日本の社会保障の現状を知る上でたいへん有効で、今後のあるべき方向性を掴む手ごたえを十分に感じられる重みのある本だと思います。

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<一言>
これもまた長い文章ですが、掲載されてしまいました。
ちょっと内容のまとめがくどくて冗長な感じがします。
あまり評価できる文章とは思えません。
もっと短くしたほうがいいとは思いますが、めんどうなのでとりあえずこのままです。
『定常型社会』との違いをもう少し具体的に示した方が良かった気がしますが、そこまでの気力がありませんでした。
今では内容の記憶も薄れて、もう一度読み直さないとわからなくなってしまいました。
記憶というのは儚いものです。

「視点はあくまでも福祉です。」

<転記 2009.10.4>

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

このような、これまでの経済成長至上主義に代わる、成長を目的としない持続可能な福祉を実現する社会という考え方は、一体どのくらいの人が受け入れているものなのか、大手メディアを見ている限りいまひとつわかりません。そのような社会が望ましいという声は確かにありますが、結局はその財源を確保するためには経済を成長させて、全体のパイを大きくするしかないというのがメディアや識者の主流の意見であり、基本的にそれに従ってきたのがこれまでの自民党政権であったように思われます。
その自民党は、官僚や大企業などの既得権益者とのしがらみから抜け出せず、政権を追われることとなりましたが、代わって登場した民主党政権に対しても、メディアや識者といわれる人たちは、やはり同様に経済拡大路線の踏襲を要求しているようです。

本書では、ヨーロッパにおける、大きい政府か小さい政府か、経済成長か環境保護かといった対立軸による社会政策の議論を示し、社会福祉を前提としてきたヨーロッパの策のあり方と、その対立が縮小してきている状況を説明しています。
対する日本は、全てにおいて経済成長のみが第一であり、社会福祉はその一つの付属品に過ぎなかった実情から、福祉を含めて本格的な富の分配の議論をしてこなかった現実を指摘しています。
現在の少子高齢化の進む日本社会で、これまでの高度成長型の政治システムを脱し、低成長の社会でどのような社会を目指し政策を行うべきかを考えるのが本書の狙いです。

著者はまず、現在の日本の社会保障の状況を振り返り、先進国中最も低い社会保障給付費であり、その内容は年金に偏り、子どもや失業者への給付が極端に低く、また財源は税と保険が渾然となった複雑なシステムであるといった特徴を示します。その背景には日本社会の「カイシャ」主義と「子育ては母親がすべき」という伝統的家族思想があり、それに対して、「雇用の流動化」と「子育ての社会化」といった方向が示されます。
また、社会保障給付を年金偏重型から医療、福祉拡充型へと移行し、老人だけに集中させず、子どもへの給付も拡充させ、財源は子どもと老人には税金で、現役世代は保険で賄うというように、人間のライフサイクルをトータルで見た仕組みを提唱します。
その財源となるべきは、やはり消費税という著者の提言ですが、このようなしっかりとした社会保障システムが示され、信頼できる政府がきちっとした国民監視システムの下で実施されることが明確にされれば、消費税引き上げの議論も十分可能になると思われます。それに加えて著者は、財源として相続税環境税を挙げています。これらも、理念と制度がしっかりと理解されれば大きな反発にはならないのではないかと思われます。

また、著者が「個人の機会の平等」の議論で例に挙げる遺伝子技術の話は、著者の思想の根深さを表すと思われます。それは遺伝子と相続を同列に扱うもので、個人の自由を実現するために機会の平等を実現するといった形で、通常相反するとみなされる自由と平等を共通の地平に位置づける新たな価値観を示します。すなわちこれは、社会保障は個人の自由を実現するための制度であるという新たな見方となります。

著者の提唱する定常型社会というのは、産業革命以前の自然の限界を意識した、持続可能な経済のあり方であり、現在の自然から乖離し無限の欲望に根ざした成長の原理を脱し、速すぎる時間のスピードを緩め、「コミュニティ」と「自然」をキーワードに持続可能な福祉社会を実現しようとするものです。
著者も何度も言うように、それは停滞や退屈といった状態ではなく、何かを我慢しなければならない社会でもなく、無理な経済成長に固執することなく、人間の本性に基づき自然な形で実現される社会の姿であるというものです。
しかしそれには、根本的な価値観の転換が必要です。
現在の鳩山政権の方向性はいまいち明確ではありませんが、もし本書の方向性と同じであるならば、経済成長を第一としてない政府に経済成長戦略を要求するのは無理があります。しかし、成長戦略を必須とする考え方がまだまだ強固な状況で、現在の現実の政治においては、経済に対するなんらかの対策もやはり必要になるのだと思われます。

本書のような内容は、理想主義的で非現実的だと言われがちですが、現状の多大な環境負荷やエネルギー問題などを考えると、本来はこちらが現実的であり、不確実な経済成長を見込んで景気対策の名目で多額の公共投資を行ってきたこれまでの政策のあり方の方が、よほど非現実的であると思うのは私だけではないと思います。また、社会主義的だという批判もありえますが、本書でも述べているように既に資本主義や社会主義という概念を超えたものであり、今後21世紀の潮流となる考えだと思われます。
ただし、定常型社会という言葉の響きは、やはり停滞的イメージを与えてしまう気がします。

本書の内容は、本格的な議論はこれからだと思いますが、これからの日本が進むべき道をかなり明確に指し示してくれる、21世紀の指南書と言える本ではないかと思います。

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<一言>
こんな長い文章よく載せてくれたものです。
何かの間違いかもしれません。
短くしようかとも思いましたが、評価してくれてる人もいることですし、とりあえずそのままにしておきました。
折を見て短くするつもりです。
本書の内容はこれからの社会保障の基本となるような、しっかりしたものと思われ、これをベースにした政策が実現できれば、これまでとはかなり違う日本となることは間違いありません。
ただし、産業界は黙っていないでしょうが。

「日本の資本主義システムを考える本。」

<転記 2009.9.27 レビュー短縮>

変貌する日本資本主義―市場原理を超えて (ちくま新書)

変貌する日本資本主義―市場原理を超えて (ちくま新書)

本書は1999年に書かれた本であり、当時の日本の社会経済状況を基に書かれているため、その当時の状況をある程度理解しておかないと、内容を適切に捉えることが難しい部分があるかもしれません。しかし本書では、適確な資本主義理解のために、近代の資本主義の成立を振り返る作業を行っているため、現在につながる資本主義のあり方を整理することができ、今読んでも十分有用と思われます。
また、10年前の状況と今日とを比べることで、何が変わり、何が変わっていないのかを考察することから、今後の日本社会のあり方を考える一つのヒントになると考えられます。

本書の書かれた時期は、ちょうど橋本内閣による改革の挫折で参院選に惨敗し、小渕内閣が成立して大きく傾いた日本経済の建て直しを行っていた時期だと思われます。正直この頃ニュースもあまり見ておらず、当時の社会の空気もよく思い出せません。
著者が冒頭部分で批判的に言及している政府の「改革」というのは、恐らく主に橋本内閣においての改革のことだと思いますが、著者は改革云々の前に、そもそも日本の経済システムそのものの理解が誤っていたのではないかという疑問から出発し、日本の経済システムとはどのようなものであり、現在のグローバル経済システムの中でどのように展開すべきかを考えて行きます。

著者の資本主義に関する問い直しは、マルクスの貨幣フェティシズム論から始まり、シュンペーターウェーバーゾンバルトらの言説から、生産の革新と消費の欲望からなる資本主義が自己拡大を続けていくことの危惧を示します。そして現在のアメリカの隆盛はこの拡大の中にあり、それに対して不信を続ける日本経済は、ケインズが示した「確信の危機」という状態に陥っている危険性を指摘します。
よって現在日本が行うべきは、将来への確信を取り戻すことのはずであるのに、今行われている「改革」は確信を打ち砕く結果にしかなっていないと批判します。しかしまた、確信が過信へと変化すれば、それはバブルを生み出す原因となるため、ことは容易ではありません。
さらにモノからカネの資本主義へと変貌した現在において、バブルの拡大は想像を絶するほどの影響力を持ちます。ゾンバルトは巨大化する資本主義の疾走を「調教」する必要性を説いていましたが、現在アメリカが主導するグローバルキャピタルの「調教」など事実上不可能です。実際、その後のリーマンショックに始まる世界的金融危機の後でさえ、ヘッジファンドなどへの規制実現の見込みはほとんどありません。

著者は資本主義のシステムを、私有財産営利企業、競争市場の3つの構成要素にわけ、その各々の関係性から国ごとのシステムの特徴を説明すると共に、資本主義のタイプ分けも行っています。
19世紀はイギリスの所有者資本主義の時代であり、20世紀はアメリカの経営者資本主義の時代であるとし、それぞれ石炭と蒸気機関第一次産業革命、石油と電気重化学工業の第二次産業革命に対応した資本主義形態であることを示し、現在は、情報と金融の第三次産業革命の時期であり、一時期日本とドイツに逆転されたアメリカが、再びその覇権を奪い返した時期にあたるとします。
果たして、21世紀はこのままアメリカの資本主義が拡大していくのか、日本はただそれに追従するしかないのか、このような視点から著者は日本の資本主義システムについて分析します。それは、企業を支える銀行をさらに政府が支えるといういわゆる護送船団方式であり、その監視機能が働かなくなったことがバブルを招く結果となりました。
また雇用システムにおいて、アメリカ、ドイツとの比較から、日本が企業内部労働を調整するタイプであることを明らかにし、その改革が迫られている状況を説明しています。いずれも、その後の小泉構造改革で変革されたものです。

本書により著者が主張するのは、現在のグローバル資本主義においてアメリカは決してグローバルスタンダードなどではなく、そもそもグローバルスタンダードなどというものは存在しないのだから、日本の目指すべきはアメリカへの追従ではなく、日本独自のグローバル資本主義へ対応したシステムの構築であるというものです。むしろ、アメリカ型資本主義は危険でもあり、距離をおく方が良いとさえ言います。

このような日本の課題に対して、著者は必ずしも明快な回答を示すわけではありませんが、その示唆するところは、競争による淘汰とセーフティによる救済の統合と、19世紀に比べてはるかに増加した資産家層へのジェントルマンとしての責任と、さらに非営利企業による市場原理からの離脱ということのようです。重要なのは、資本主義を維持することではなく、社会を維持することであるという言葉は強く共感できます。

本書が書かれてから、日本は著者の意図に反してアメリカ追従的政策により、現在の格差拡大が大きな問題とされる社会へと至っています。バブル崩壊後の失われた十年からさらに十年の時を経ましたが、著者の提言は今でも十分有効と思われます。

本書は、バブル崩壊からの日本の歩みを今一度振り返るよい切っ掛けになると同時に、近代資本主義の構成など有益な知識を得ることができました。
日本の資本主義システムを考えるのに有効な本だと思います。

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<一言>
なんとなく読んだ本ですが、最初の方の近代資本主義の成立を振り返る部分がなかなか面白くて、ついつい読み進めてしまいました。
しかし後半の資本主義の分析の部分はちょっと取っ付き難かったと思います。
あまり詳しくないので、この本の視点がどういう位置づけなのかよくはわかりませんが、どちらかと言えば経営分析という感じなのかもしれません。
あと、99年当時を振り返れたのは良かったです。

「答えは経済成長ばかりではありません。」

<転記 2009.9.21 レビュー短縮>

経済成長神話からの脱却

経済成長神話からの脱却

本書について、ノーム・チョムスキーが「待望の書」であるという評価を行ったということが書かれていましたが、私もその通りと思いました。
最近自分が感じている、現在の経済成長至上主義一辺倒の論調に対する違和感を、明快に文章にしてくれたという感じがして、なんだかとてもすっきりした気分が味わえました。

本書は、経済成長を前提としたこれまでの社会のあり方について、経済が豊かになっても決して人が幸福になるわけではない、というある意味当たり前の、けれどもなかなか実践されない考え方を基に、新自由主義経済の下で拡大し、いびつな社会を作り出してきた消費者資本主義から、ポスト経済成長社会への転換を図り、これまで犠牲にされてきた共同体、自然、人間の尊厳の回復を目指すことを提唱します。
その際、著者が引き合いに出すのが、アリストテレスの「幸福主義」であり、物質的豊かさよりも、幸福感を感じられる社会を目指すことが肝要であるという、多少アナクロな感じもしますが、結局はこれしかないという真正面からの提言を行っています。ちょっと、かつての「モーレツからビューティフルへ」というキャッチコピーを思い出しました。

しかし、著者が経済成長は幸福感に繋がらない例として引き合いに出すのが日本であるというのは泣けてきますが、全くその通りなのが切ないです。著者はオーストラリアの学者ですが、何かと日本が引き合いに出されるのは、やはり日本が豊かで不幸せな国というイメージが強いせいなのかも知れません。確かに様々な調査における、日本の幸福感は先進国中かなり低く、自殺率もトップレベルというデータには間違いありません。

著者は、行き過ぎた新自由主義のあり方を批判するのみならず、それに対抗すべき左翼の旧態依然とした思考のふがいなさを嘆きます。そして登場した社会民主主義第三の道をも、従来の方法の追認に過ぎず、新しい方向を示していないとして切り捨てます。結局は、これらの全てが経済成長を求めるだけの現状肯定に過ぎず、人々の幸福に繋がらないばかりか、環境と人間の繋がり、ひいては人間性をも破壊する結果になっていると糾弾します。
それは、現在の状況を見れば、物質的な富は十分に確保されているにもかかわらず、不必要に経済成長を強要され、過剰な消費を行い、そのために過剰に働き、時間もお金も心にも余裕がないという歪な状態から、明白であるといいます。

また、家事労働やボランティアなどの無償労働について、経済成長至上主義の中では無価値とされ、さらに、経済原理の中では、賃労働に換算されて、その本来の価値を貶めているという指摘は、現在の資本主義の問題の核心を突いており、労働というものが本来経済活動以上の行為であることを改めて考えさせられます。

さらに著者は、自身の言うポスト経済成長社会が、ミルの言う定常社会と同種のものであることを示し、その方向性を具体的に示すと共に、経済成長至上主義者からの反論に対しても回答しています。
その中で、「成長なしでは資本主義経済が崩壊するのでは」というのと、「グローバル化において国の経済拡大は不可欠」という疑問への反証に、またもや日本を引き合いに出して、バブル崩壊後のゼロ成長の日本は崩壊もせずに、さらに国際的な存在感を保っており、逆に文化が栄えているではないかと主張します。

このように、なにかと引き合いに出される日本ですが、実際その問題は複雑で深刻です。
少子高齢化社会保障費はかさみ、さらに厖大な借金を抱えて、返せる見込みもありません。日本の場合、経済成長が幸福への道という考えよりは、国民は現状維持と将来への不安から、また政府はその場しのぎのために経済成長を主張しているようにも思えます。企業はその本質上、当然経済成長を主張するでしょうが、もっとNPOのような非営利の団体の増加が必要なのかもしれません。
いずれにしても、なぜ、マスコミでよく見る人々の政治への要望に、景気対策という言葉が反射的に出てくるのか、もう少し深く分析してみる必要があるように思います。景気の回復とは何を指すのか、本書の示すように、答えは経済成長ばかりではないように思います。

本書は、社会の転換期にある現在、これまでの価値観を変革し、今後の社会を新しく構築していく上でとても示唆的で、大いに参考になる本だと思います。

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<一言>
経済成長が悪いわけではありません。
経済成長ばかりを追い求める姿勢が問題ではないかということです。
経済成長で得られるものより失うものの方が大きいのではないかという疑念もあります。経済成長と幸福感は本来関係ないものですが、経済的問題が解決すれば幸せになれるような幻想がある気がします。
当然そこには、別の問題が発生します。
本当に求めているものは何かをはっきりさせる必要があるのだと思います。

「上流から見た下流。」

<転記 2009.8.30>

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

本書にある下流度チェックを見てわかるように、ここで言われている下流というのは、社会的な落伍者のように、あまりいい意味で使われてはいません。元々、上流とか下流とかいう言葉は社会階層として使われるものなので、当然そこに階級意識が介在することは不思議ではありません。
著者は、経済的な格差に加えて、コミュニケーション能力の格差や意欲の低さなども含めて下流という言葉を定義しています。その上で、近年この下流という階層が増加しているという状況を、様々な統計や著者の独自の調査から明らかにしています。

著者はマーケティングの専門家であり、この下流に対する調査も消費という観点が中心になっているようで、男女を様々なタイプに分類して、その消費傾向を分析するといった形で現代の消費者動向を探るというものになっています。
ただし、全体的にその見方は従来的というか、これまでの成長路線の流れを踏襲している面が強く、かつての勝ち組・負け組という概念に沿った形で、男は年収の高さ、女は結婚が勝ちの条件とされているようで、確かにそのような分類でいけば、近年の所得格差や晩婚化・非婚化といった社会現象とも整合するものと思われます。
このような調査から浮かび上がる、かつての中流層の減少と下流層の増加から、ビジネスのターゲットをもっと上流に絞り込むべきとの提言は説得力があり、マーケティング的には有効性が高いものと思われます。

しかし、本書は単純なマーケティング分析に留まらず、著者の社会論とも言える、現代の日本の社会状況を憂えるような、下流批判へと展開していきます。
極端にまとめると下流はひきこもりで、ぐうたらで、意欲もなく、コミュニケーション能力も低く、年収も低く、結婚もしていない社会の役に立たない人間であり、日本の将来に大変問題となる人たちであるという危惧を著者は抱いています。
これは著者の下流の定義から来ているため、下流批判はある意味当然であるともいえますが、かなり一方的な印象を受けるのも確かです。最初から批判するために、下流を定義していると言われても仕方がないように思われます。
これはそのまま、現代の若者批判と言ってもいいかも知れません。
著者の言う下流が広がっているのは、現代の若者だからです。本書では「自分らしさ」という言葉からも下流論を展開し、自分らしさ追求派が下流へと繋がることを示していますが、著者の展開する批判は自分らしさを自分勝手という意味合いで読み替えている部分があるように思えます。
確かに、一般的にも両者を同義に使っている人たちは多いのですが、もう少し慎重に言葉を選んで分析したほうが良いように思われます。

このような著者の下流批判には、著者の価値観が大いに関係しています。
それは、著者にとって望ましい社会とは、流動的で活気があり、多様性のある刺激に満ちた社会だからです。著者の言う下流は、閉鎖的でエネルギーに乏しく、同質的で刺激の少ない人たちなのですから、このような存在が許せるはずもありません。
それに、著者はかなり上昇志向が強いようで、山の中腹で登るのを止めるような態度が理解できないようです。
しかし、著者の求めるような社会は、一昔前の高度成長期に主流だった価値観であり、現在の成熟化に向かいつつある社会ではあまり適合性が高いとは思われません。確かに、著者のいう下流は問題がないとは思いませんが、それは著者の価値観から批判的に抽出した面が多いと思われ、もっと別の観点から、肯定的に評価できる下流の定義もあり得ると思われます。
本書で欠けてるのは、当事者意識ではないかと思われます。
著者は、東京郊外に住む若者たちを同質であるとして「バカの壁」の状態にあると批判しますが、著者自身が「バカの壁」に捕らえられている可能性も考慮する必要があるかも知れません。
もちろん、そう言っている私自身もなのですが。ただし、本書は数年前の本なので、著者の価値観にも変化があるかも知れません。

本書は、著者の階層意識がかなり反映された、ちょっと偏った下流論だと思われます。大変評価の低い本ですが、かなり多くの人に読まれ、その訴求力は評価に値するものだと思われます。
ちなみに、本書の下流度チェックで、私はほとんど当てはまるということは言うまでもありません。

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<一言>
これは上から目線が目立つ内容でした。
なるべく冷静に書こうと思ったのですが、ついつい反発して批判的になってしまいました。
まあ、この本のような視点も確実に存在するのですから、一つの意見として冷静に受け止める必要があるのだとは思います。
しかし、こんな長い文章がよく掲載されたものです。
短くしようと思いましたが、せっかくなのでそのままにしておきました。

「何のための経済成長なのか。」

<非掲載 2009.8.23 レビュー短縮>

経済成長という病 (講談社現代新書)

経済成長という病 (講談社現代新書)

この本のことは知りませんでしたが、日頃から経済成長一辺倒主義の現状に疑問を持っていた私としては、本のタイトルに惹かれて読んでみようと思いました。
正直それほど期待していなかったのですが、ビジネスの最前線の現場にいる人からの、現在の経済システムの異常性を真正面から指摘する鋭い批判に、久しぶりにまともな意見を聞いた気がして、驚きと共に嬉しさを感じました。

本書でも指摘されているように、現在の政治家や経済の専門家などのメディアで語られる言説は、ほとんど全てが経済成長を前提とした政策や予測であり、それが唯一絶対の条件であり、全く疑いないような扱いをされていることはかなり異常な印象を受けます。

著者はビジネスの実践者ではあっても、政治や経済の専門家ではないとのことで、恐らく通常の市民感覚から疑問を感じていると思われます。私も同様の疑問を持っていましたが、そのような意見を公に見る機会はほとんどなく、このような形で発言されておられるのは大変貴重で有意義なことと思われます。しかし、このような考えがどの程度社会に受け入れられているのか大変疑問であり、共感している私も含めて、かなりのマイノリティーなのではないかという不安は拭えません。そうではないことを祈ります。

著者は、これまでのアメリカ主導の資本主義のあり方が根本的におかしいということを、グローバル化グローバリズムとの違いから説明しています。前者は社会の自然な流れであり、後者は経済的強者による支配体制の拡大戦略によるものです。
そして、昨今の経営者が著しく倫理観を失っているとの言説に対して、その本質が株主利益重視の考えから来ていることを指摘します。また、国際競争に勝つために政府が行っている、大企業を優遇する政策が、結果的に中小企業を壊死の状態へと追い込んでいることを示し、上位にある層の生活レベルを維持しようとする行動が、下位の富を吸い上げる現在の状況を、そのまま肯定はできないものの、人間の本性上完全には否定できないとします。

本書における著者の思考の背後にあるのは、秋葉原事件への言及からも窺えるように、その当事者性であると思われます。現在の経済問題や政治問題を含む社会問題について、メディアで目にする言説の多くは、自分とは関係のない理解不能な出来事であり、自分と隔離する方向での対処が要求されており、著者はそこに疑問を感じているようです。
著者はビジネスの現場で自分の感じた、今世紀初めの価値観の変化の原因を突き詰めるところから、欲望を無条件に肯定する社会の帰結としての、世界的金融危機秋葉原事件という、身近でしかし感覚的には遠い現象にまつわるあれこれを思索します。それらの出来事の因果関係は短絡的に結びつけられませんが、同じ時代背景の何かを共有しているように見てとれます。
誰かの強欲でもなく、誰かの異常性でもなく、自分の欲望や、自分が日々平常でいられる偶然性について想いを至らせる、そんな自覚を持って欲しいと著者は願っているようです。

そのような思索の中で、著者は現在の少子化による人口減少は経済成長の結果なのであり、経済成長のために少子化を防ぐという考えは本末転倒ではないかという疑問を投げかけます。さらに、出生率は低下しているのではなく、適正化されているのではないかという大胆な見方を示します。
一見突拍子もないように聴こえますが、頭から否定はできないように思えます。
もしそうであるならば、著者も言うように、政府の取るべき政策は無意味な少子化対策ではなく、人口減少社会に即した環境整備を行うこととなってきます。
著者は政府が経済成長に固執する原因を、昨今の若さへの過剰な固執と重ねて見ていますが、確かにそのような面は否定できないと思います。
私はそれに加えて、高齢社会を支えるための労働力の確保や自分たちの生活レベル維持のためという、どこまでも自分たち本意の思想が全面に出すぎている気がしてなりません。
これも人間の正直な気持ちとして否定はできませんが、労働力としてしか期待されない子どもや母親たちが、それを拒否するのは当然のことに思えます。かつての、「女は生む機械」発言へ激しい反発も、背後にこのような意識があったのだと思われます。
そもそも、少子化と経済成長を短絡的に結びつけるのも、疑問の残るところではあります。

本書は将来像の見えない現代の問題を考える上で、様々な示唆を与えくれる優れた本だと思われます。本書で引用されているいくつかの本についても、目を通してみたいと思いました。
また、経済成長の必要性については、ミヒャエル・エンデシルビオ・ゲゼルなどの考えとの関連も考慮が必要かと思いました。

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<一言>
本のタイトルは素晴らしいのですが、内容はただのエッセイという感じで、もう少し論理的な鋭い展開を期待していたのが、ちょっと肩透かしをくらった感じです。
それでも内容的には共感する部分も多く、このような考えの人もちゃんといるのだということがわかったのは嬉しいことでした。
この本での引用文献も何冊か読んでみましたが、さらに素晴らしいものでした。
もっとこのような方向での議論が一般的になればいいのですが。

「所詮人間、されど人間。」

<非掲載 2009.8.16 レビュー短縮>

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

最近の宮台さんの本は読んでいませんが、その言動はそれなりに見聞きしているので、本書の内容的には馴染みのあるものが多く、現時点での宮台さんの考えの総集編的な意味合いの本だと理解しました。
ご本人も述べられているように、これだけ幅広い範囲でディープにしかも適確に社会問題を語れる人もそうはいないと思われ、混沌とした現在の社会状況を把握し、今後のあり方を展望する上で大いに参考になるのではないかと思われます。
私自身は、宮台さんの考え方に同感するところが多いのですが、最近ではこのようなリベラルな考え方をする人も大分多くなっているような気もして、宮台さんの活動がジワジワと功を奏してきたのかと思ったりする次第です。

本書では現在日本の状況把握とその背景、そして対処方法を考えるという大まかな筋立てで展開しますが、若者の動向、メディア、学校教育、いじめ、宗教、自殺、早期教育、といったクリティカルな問題から今の日本の状況を浮き上がらせ、その背景にある社会の包摂性の崩壊を、システム化、郊外化という現象をキーワードに解説し、その延長線上にアメリカ発の金融危機を位置づけます。そして現在の食料自給率を含む日本の農業問題から、今後の日本のあるべき方向として、柳田國男的日本固有の「国土保全を通じた社会保全」を提唱します。
それは昔に戻ればいいといった単純な懐古趣味ではなく、個人の自立を前提とした新しい共同体による社会の自立を目指すものであり、現在の農協を守る政策から農業を守る政策への転換を図り、農業を核とした食料自給、環境保全、雇用確保、社会的コミットメント、内需経済循環、といった形で経済だけでなく社会も機能していく仕組みを新たに構築していくものです。

しかし、実際に現在の仕組みを変えるのは非常に困難です。
それは、営利優先の企業や省益優先の官僚、及びそれらに密接に結びついた政治家などの勢力が強固に反対するといった単純な問題ではなく、正社員を初めとして現在の国民のほとんどは既に何らかの形で既得権益者であり、現在の構造を変えれば少なからず自分の取り分を諦めなければならない人がほとんどであることが問題の根底にあるからです。
それが、改革の痛みというものですが、それを視覚化し、全体の利益を優先するように説得していくのが政治家の責務であり、さらにそれを下支えするマスメディアの役割が重要なのですが、現状それを望むのはかなり難しい状況です。

しかし、宮台さんは悲観していません。
システムによる崩壊だからこそ、システムによる再生が可能であり、また、どんな時代であっても優れた利他的人物は存在し、その感染力によって周囲は変わりうることを確信しているからです。宮台さんのエリート主義はノブレスオブリージュを前提にした、一種の革命思想なのかもしれません。

それにしても、多くの指摘のように、宮台さんの文章は特殊な言い回しや難解な言葉が頻繁に出てきて、一般的には読みづらいのではないでしょうか。意図的な部分もあるのでしょうが、内容を平易にしても表現が難しいと、きちんと理解されない恐れがあります。かく言う私も、かなり誤解して読んでいる気がしてなりません。
それと、相変わらずの挑発的な表現も、わざとなのは分かりますが、あまりいい感じはしません。この辺は、もう少しオバマ氏を見習ってはどうかと思う次第です。
あと、ここで展開される重武装という思想は、最終的に核武装にも繋がるのではないかと危惧され、個人的には承服し兼ねるところです。
安全保障が軍事のみに非ず、というのはその通りと思います。

この本から感じたのは、これからの社会はモラルエコノミー、モラルサイエンス、モラルソサエティーといったモラルを重視した社会を目指すものであり、それは単に道徳といった規範に縛られた社会のことではなく、節度ある大人の社会をいかに構築していくかという、人間の人格的陶冶を念頭に置いたものであるということです。

その手始めとして、「恣意性からコミットメントへ」というポスト・ポストモダンの社会を新たに構築していく必要があるということですが、その具体的な形はまだ明確には見えてきていません。私は未だに「するも選択、せざるも選択」のポストモダン的世界の中に留まっている状態です。

本書は、日本社会のあるべき方向性を認識した上で、自分の立ち位置を把握できるような、一種の羅針盤のような本だと思われます。

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<一言>
やはり分かりにくいというのが印象かも知れません。
宮台さんも一般からかなりずれてきているのかもしれませんし、ご本人はそれをあまり意識していないという可能性もあります。
しかし、元々分かる人だけ分かればいいというスタンスのようでもあるので、そんなに問題ではないのかも知れません。