「結構ハードルの高い入門書。」

<転記 2009.12 レビュー短縮>

国際金融入門 (岩波新書)

国際金融入門 (岩波新書)

国際金融とは日常ではあまり意識しないし、ニュースなどで為替レートがどうとか、円高ドル安などという言葉を耳にするくらいですが、グローバル化の進む現在、世界的な金融の動きも国内での身近な生活に大きく影響し、全くの無関心ではいられないと思われます。そこで、多少とも国際金融について知識を得て、ニュースなどで報じられる内容が理解できればと思って読んでみましたが、ちょっと甘い目論見だったようです。

本書を読み始めてすぐに、国際金融云々よりも、まずは金融についての基礎知識がなければ話にならないという、至極当たり前のことに気づきました。為替レートの決定メカニズム以前に、そもそも為替についての知識が全くないので、本書の噛み砕いた説明もなかなか頭に入ってきませんし、概念がよく理解できません。

円売り・ドル買いなど、当たり前に使われている言葉ですが、金融に馴染みのない私などは、そもそもなぜ貨幣の交換を売り買いというのか疑問に思われます。しかし、よく考えると日常の買物も、貨幣と物品の交換を売買と言っているわけで、そうすると貨幣の存在が問題になるのか、単なる交換とは意味合いが異なるのか、などと貨幣経済の根本がよくわかっていないことに気づき、とても国際金融どころではありません。

本書でも、貨幣の交換機能や価値の貯蔵機能など、貨幣の基本から話が始まり、貨幣の貸借である金融から、国を跨いだ金融である国際金融の話へと徐々に話が展開してきます。ただ、そもそも売買とは何であるのか、円売り・ドル買いの謎はひとまず置いておくことになります。また別途、いろいろ調べてみる必要がありそうです。

本書は、制度、理論、歴史の側面から国際金融を説明していますが、制度や理論については当然金融用語や公式のようなものが出てくるため、まるで学校の勉強のようであり興味を持続するのは困難です。外国為替、国際収支、為替レートなどなど基本的ですが、よく理解できていない事項の説明が続きます。しかし、国際収支表の符号と資本の流出入の定義は通常の簿記とは異なるなど、通常の簿記も良く理解できない者には理解困難です。

また、日本が金持ちになるには経常収支が黒字になる必要があるというのは、なんとなく意味がわかりますが、資本収支が赤字になると日本は金持ちになる、と聞くとなぜ赤字なのに金持ちなのか意味不明です。しかしそれも、資本収支の意味を理解するとその理由が分かってきます。要するに、金融に関する言葉の定義と公式の理解が必要ということですが、例えば、国際収支では、経常収支を初め、資本収支、基礎収支、総合収支といろんな収支だらけでうんざりします。それでも、ファイナンスが資金調達を意味するということだけでも、かなり分かったような気になります。

本書の背景には、米国の膨らみ続ける経常赤字と日本の一向に減らない経常黒字に伴う日米経済摩擦や、その結果、米国自身の財政赤字の解消が本筋であるにも関わらず、日本の経済構造の閉鎖性に問題ありとして市場解放を要求してきた米国の態度の身勝手さを分析する意図もあるのでは、と思いましたが、その意味合いでも、なぜ日本の黒字は減らず、円高になっていくかという理由を理解する上でも、為替レートの決定メカニズムを知ることが重要になってきます。

その為替レート決定の基盤となる国際通貨制度が、金本位制からブレトンウッズ体制下の固定相場制、さらに変動相場制へと歴史的に変遷する過程から、国内均衡と国際均衡の狭間で世界の国々が何を求めて、どのような経緯で体制を形成していったのか、世界経済のダイナミズムが感じられる、なかなか興味深い内容となっています。

当然国際通貨制度は、各国の財政金融政策にも影響を及ぼすわけで、その一つの結論として、固定相場制下では財政政策は有効だが金融政策は制約され、変動相場制下では金融政策は有効性を増すが、財政政策は効果が薄くなる、というマンデル・フレミング・モデルというのは、なかなか参考になる考えのようです。

歴史的な紆余曲折の末に採択された変動相場制に対する著者の評価は、当初期待されたほどの効用はなかったものの、現在考えられる為替相場制度としては最高のもの、ということで、今後もこの方向で拡大していくことは間違いなさそうです。

金融のいまひとつ重要な要素として、為替リスクに対する回避手段としてのデリバティブ及び、それを使ったヘッジ・ファンドによる投機などの問題がありますが、それらの権化ともいえるジョージ・ソロスについて著者が、単なる投機ではなく経済の論理を熟知した合理的判断に基づく行動に過ぎない、と評価しているのは興味深いでした。

様々なところでしばしば取り上げられる、円高ドル安の問題については、円高ドル安が進むと日銀は公定歩合引き下げで対応する傾向があり、87年からの金融緩和がバブルを引き起こしたとする著者は、長期の金融緩和政策は有害であるため円高対策を行うよりも、円高は受け入れて別の対策を行うべきという考えのようです。

本書の書かれた95年当時は、円高がさらに進んだ時期でもあり、円高による国内の産業空洞化が懸念される中、著者は円高による輸入増大は新たな国際分業の始まりであり、より高度な産業へのシフトと介護福祉などサービス部門の拡大、さらに余暇関連産業へと産業構造の転換を提唱しています。実際その後どうなったのか、詳しいことは知りませんが、それから15年近く経った今でも、同様のことが言われているような気がします。昨今の円高についても、米国発の金融危機に基づくドル安に引きずられるように、どんどん円が高くなっている状況に対して、もはや公定歩合を引き下げるような政策も取れない現在、どのような対策が可能なのか、ここでも著者の主張するような円高受けれいれによる、新たな産業構造の転換という局面に差し掛かっているのかもしれません。

お金は日常当たり前に使うものなのに、お金の流れに制度や国、国際関係が絡むとかなり複雑で専門的な知識が必要になるのだということがよくわかり、益々自分からは遠い世界であるような感じがしてきます。本書でもかなり初歩的な解説に留めているようではありますが、私のように金融の知識のほとんどない人間には、入門としてはちょっときついと思われました。しかし、国際金融の初歩をしっかりと理解したいという人には良い入門書であると思われ、本書を基礎に、わからないところをさらに調べていくようにすれば、理解もずっと進むのではないかと思われます。

本書は、風が吹けば桶屋が儲かる的な金融の複雑さを、学術的な平易さで解説した、所謂、岩波的入門書といったところでしょうか。

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<一言>
この本最近新しくなっているようで、装丁だけなのか内容も多少手が入っているのか、どうなのでしょう?
いずれにしても私にとってハードルの高いものでした。
どうも経済とか金融とか昔から苦手です。
そのせいで、レビューの内容も単なる愚痴のようなものになってしまいました。
反省することしきりです。
本書も金融の理論の説明は難しく興味が湧きませんでしたが、歴史の部分はなかなか面白かったので、なんとか最後まで読めました。
興味の薄い本を読むのはやっぱり大変です。

「会計の知識は商売のいろは。」

<非掲載 2009.12 >

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

一時期かなりのベストセラーになっていたと思いますが、今更ながら読んでみました。確かに売れるだけのことはあると思います。
会計の概念を分かりやすく噛み砕いて説明し、親しみやすさを感じさせるのに成功しているように思います。私も簿記の本を読んだことがありますが、結局ちゃんと理解できませんでした。本書で簿記が理解できるようになるわけではありませんが、もう一度勉強してみようかという気にはなりました。

内容が薄いとの批判も見られますが、それでもこれだけ売れたのはなぜなのか、『「さおだけ屋ななぜ潰れないのか?」はなぜ売れたのか?』という本があってもいいのかもしれません。たぶん、売れないでしょうが。でも、わかりやすさ第一というコンセプトははっきりしていて、本書から学ぶところも結構あるように思います。

以前テレビでやっていた、一見潰れそうなのに継続している店の儲けのからくり的な番組は、この本からアイデアを持ってきたのでしょうか。ただし、本書はあくまで会計の基本知識を説明するために事例を挙げていますが、テレビの方は儲けの方法に重点が置かれていたのは、視聴者の興味のあり方からして当然なのでしょう。

本書では、会計の基本的要素の中から、利益、連結経営、在庫、機会損失、回転率、キャッシュフローといった概念を、具体的な例を挙げて説明しています。その一つがタイトルでもある「さおだけ屋はなぜ潰れないか?」というエピソードなわけですが、利益の出し方の基本はわかりましたが、結局さおだけ屋の正体は特定事例からの推測のみで、その実体が不明のままのような気がしますが、本当はどうなのか気になります。

こまかい節約よりも、節約は絶対額で行うべきだという考えはその通りだと思いますが、少しでも安く買えた満足感とか、性格上の問題や、節約に対する考え方の違いとか、心理的要素も多分にあると思われ、そう簡単ではない気がします。ただ、節約の問題は、個人や夫婦レベルから国のレベルまで、結構深い問題なのではないかとも思いました。

それと、在庫は悪であり、不要なものはどんどん捨てていくべきとの考えもわかりますが、私のような優柔不断な人間からすると、そのような合理的判断ができるのも一つの才能ではないかと思われます。また、機会損失の話は在庫の累積と裏腹の話でもあり、商売が一筋縄ではいかないということを感じさせます。

あと、住宅ローンの繰り上げ返済はいいことだと思っていたので、必ずしもそれは必要ないというのは新しい発見でした。とは言っても、私には関係ない話ですが。しかし、企業には重要でも家計ではそうでもない、というこの借金の話は、国のレベルではどうなるのか、国の財政の話についてもわかりやすい会計的説明があるといいと思いました。

内容の面白さと共に、著者の性格を反映していると思われるユーモラスな語り口も本書の魅力であり、その上やたら読みやすいと思っていたら、この人小説も書いているとのことで、なるほどと納得した次第です。分かりやすい文章力と構成力は、著者が文系出身であることに関係しているのではないかと思われます。
著者の述べている、会計には数学ではなく数字のセンスが必要であるという話から、優秀なプログラマには文系のセンスが必要という話を思い浮かべました。確か、単なるロジカルな思考だけではなく、全体を捉えて本質を見抜く読解力のようなものだったと思いますが、著者の説明する数字のセンスというのは、まさにそのようなものではないかと思われました。

兎にも角にも、本書は、会計を身近に感じることができ、また、日常においても何かと役立つ知識を得られる、とても読みやすく面白い本であることは間違いありません。

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<一言>
これも『反貧困』と共に未だに掲載されません。
だいぶ短くしたつもりなのですが、まだ長いのでしょうか。
それとも他の理由があるのか、よくわかりません。
本書の売れた原因はやはりタイトルでもある、さおだけ屋のエピソードが斬新だったのだと思われます。
誰もが不思議に思う日常の出来事を、「儲け」というこれまた誰もが食いつく事柄と結びつけてちょっとした謎解き風に見せるその手法は、目の付け所が素晴らしいのではないのでしょうか。
かのテレビ番組との関連性はよくわかりませんが、テレビでも取り上げられるほどのキャッチーな内容なのだと思われます。
しかし、それだけでとも思われず、他にも理由はあるのでしょうが、よくわかりません。

「生きた金融の教科書。」

<非掲載 2009.11 レビュー短縮>

日本の金融政策 (岩波新書)

日本の金融政策 (岩波新書)

何かと金融政策が取りざたされる昨今、その実体はいかなるものなのか多少でも理解できればと思い、93年と少々昔の本ですが、その名もずばりの本書を読んでみました。
日銀の理事として現場を体験した著者の、当時の状況を踏まえた日銀の活動の説明は思いのほか面白く、分かりにくく難しいと思われがちな日銀の活動の原理がわかり、幾度かの失敗から学んだ成果が今日にも生かされているのだという歴史も感じられます。

本書の冒頭では、持続的なインフレは経済に悪影響をもたらすということを、資産の多寡により不公平な所得分配を引き起こすことや、企業の将来の採算予測が困難になり非効率な資源配分をもたらすことなどを挙げて説明し、物価の安定こそが経済の安定的な成長をもたらすのであり、中央銀行の役割は長期的視点に立って、急激に変化する社会情勢や政治の野心に左右されることなく、物価を安定させることこそが最大の目標であるという金融政策の基本原理を説いています。

その背景には70年代の石油ショックの時期に起きた狂乱物価と、80年代後半のバブルの発生とその崩壊において、物価の安定という本来の目的に沿った政策を遂行しきれなかった日銀としての反省も多分に含まれているようです。

本書では、戦後からバブル崩壊までを、戦後経済復興期(45〜54)、高度成長期(55〜73)、海図なき航海期(74〜85)、資産インフレ・デフレ期(86〜)の4つの時期に分けて歴史的に振り返っていますが、この間に起きた国内外の様々な出来事による社会の激変の中で、いかに日本銀行がその二つの使命である「通貨価値の安定」と「信用秩序の維持」とを金融政策の目標とするに至ったかの経緯とその実践の過程が、その時々のキーワードと共に描かれており、戦後日銀の果たしてきた役割の重要さと大変さがよくわかるのではないかと思います。

著者の当事者としての話ではありますが、米国を中心とする世界的な経済環境変化や圧力、政治的思惑や要望、さらに世論の動向など様々な外的要因の中で、政策的誤りもありながら、常に最善の選択を行ってきたという自負が感じられ、本書を読む限りでは日本のバブルの発生崩壊も含めて全て起こるべくして起きたことのように思われます。

さらに、専門家であり当事者でもある著者のバブル発生に関する考察は興味深く、ドイツに倣って早期に公定歩合を引き上げておくべきだったと、当時のプラザ合意後の対応について、国際協調政策に縛られすぎたことを反省し、もっと国益を優先しても良かったはずだったとの見解を述べています。また、物価の安定に気を取られ、マネーサプライの過剰供給を見逃したことや、資産価値を軽視したことによるその後の資産デフレの影響の大きさなど、バブルから学ぶところは多かったのだということがわかります。

そのバブル発生の根源ともいえる、ニクソン・ショックにより始まる固定相場制から変動相場制への転換も、二度の石油ショックによる世界的不況も、その後の金融自由化の進展も、いずれも来るべきグローバル化現象の大きな流れの一部であり、戦後一貫して「追い付き路線」を突き進んできた日本が、いつの間にか身に着けた自分の実力に無自覚なまま、国際舞台の中で経済大国としての責任を問われ、右往左往しながら路線を国際貢献へと転換する中で、徐々にその責任を自覚していった様子が垣間見えます。

しかし、本書でも指摘されているように、「世界最高の資産超過国」であり「世界最大の黒字国」となった日本の国民生活は全く向上しなかった事実は重く受け止めるべきだと思われます。有り余る資産を、生活関連社会資本に投資せずに、ムダな公共事業や企業のさらなる発展拡張などに使われていった付けは、巨額な国債の増加と共に後に重く圧し掛かってくることになります。けれども、金融システムの安定化が目的の金融政策では如何ともし難く、やはりこのような話は、政治が対処すべき問題となるのでしょう。

そこで問題となるのが、日本銀行の独立性ですが、本書の最後の部分でも触れているように、政治は選挙も絡んで物価以外の目先の景気、経常収支黒字、円相場などに囚われた金融政策を要求しがちであり、日銀は長期的視点に立った金融システムの安定のための政策運営をいかに担保するかが問われることになります。
本書では、93年当時の日本銀行法が物価安定の基本方針も規定されず、日銀の独立性も担保されないことを指摘していますが、その後97年に改正されたようです。新法では、日銀の目的の明確化と独立性の確保は一応盛り込まれたようですが、まだいろいろ問題も残っているようであり、昨今の日銀総裁人事を巡る与野党の対立などを見るにつけても、日銀の独立性とはどういうことなのか、なかなかわかりにくく難しい問題のようです。

また、近年のデフレ問題についても、日銀の物価安定目標からはどのような対応をすべきなのか、そもそも金融政策で対応可能な問題なのか、銀行の「貸し渋り貸し剥がし」問題への対応も含めて、金融時代の今日、日銀を巡る疑問は尽きません。

本書は、戦後日本の金融政策のあり方を知るにはうってつけの本だと思われ、慣れない用語や幾分難しい専門知識もありますが、普段は縁遠い日銀を多少は身近に感じることができる、手ごろな良い本だと思います。

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<一言>
イメージ画像はないのですね。
それほど人気のない本なのでしょうか。
結構いい本だと思うのですが。
日銀の保守性がよく理解できると思います。
本書の立場で言うなら、日銀はあくまでも保守的であらねばならないということかも知れません。
確かに、短期的な景気の変動を望む世論やその付託を受けた政治家が、かなり長期の視点で運営される日銀の政策にあれこれ口を出すのは、とても危険なことに思えます。
そもそも金融政策で景気を操作することが可能なのか、もしできたとしてもそれが本当の意味での政策と言えるものなのか、単なるその場しのぎに過ぎず、本当にやるべきことから目を逸らしているだけではないのか、そんなことを考えさせるような内容の本でした。

「こんな日本に誰がした?」

<非掲載 2009.11 レビュー短縮>

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

本書の主張を一言でいうなら、「財源は経済成長で確保せよ」ということになるのだと思われます。要するに持続的に緩やかなインフレを起こすことによって、経済規模を拡大していくことを政策的に行うみたいですが、以前から同様の提言はいろいろ出されていたように思います。評判の悪かった(たぶん)インフレターゲット論との違いなどよくわかりませんが、紙幣の増発を行うべきとの意見は今でもしばしば聞かれることだと思います。
確か、緩やかなインフレを目指すというのは、竹中平蔵氏も言っていたことだと思います。著者の飯田さんは、何かと批判される小泉構造改革に全面的に反対というわけではなく、方向性は良いけれども時期を間違ったという主張を行っているようです。私も、小泉改革はそれなりの意義があったのだと思っています。

本書の構成としては、貧困撲滅の立場からの雨宮さんの疑問に対して、飯田さんがマクロ経済学の立場からその疑問に答えるというという形の対談形式で話が進みます。雨宮さんは、たまにテレビでお見かけしますが、なんだかいつもおじ様たちにやりこめられているようなイメージしかなかったです。プレカリアートというのも、今回初めて認識した言葉ですが、認知度も言葉の響きとしても個人的にはいまいちという感じがします。

財源が減ったのはお金持ちの税金を安くしたからというのは、確かに飯田さんが言うようにメディアなどではあまり取り上げられない感じがしますが、なぜなのでしょうか。メディア戦略的な話も出てきますが、メディア自身が当事者として金持の側にいるせいなのかも知れません。累進課税を以前の水準に戻すとか、相続税の増加といった考えに反対する人たちは誰で、どのような理由によるものなのか、もちろんお金持ちの人たちなのでしょうが、その実体が良く見えないので、詳しく知りたいところです。

貧困の問題は世代間の問題ではなく、それぞれの世代にあまねく存在していることをもっと認識して欲しいということと、けれども世代内での貧困バッシングの方が酷いのかもしれないという話は、問題解決の難しさを感じさせます。世代内のバッシングについては、両者の意見が分かれていましたが、飯田さんの楽観論よりは、雨宮さんの悲観論の方が、ネットなどを見る限りでは強いような気がしますが、どうなのでしょう。

全般的に飯田さんは楽観的で、雨宮さんは悲観的なトーンなのは、性格の違いもあるのでしょうが、それぞれの活動領域からすれば当然なのかもしれません。社会の中で虐げられきた人たちの中で活動する雨宮さんは、散々バッシングを受けてきており、徒労感もかなり大きいのではないかと思われます。お仲間の湯浅さんにも、同様の悲壮感が漂っている感じがありますが、それが益々バッシングを誘っているのかも知れません。
対する飯田さんは気鋭の経済学者として、貧困を打破し経済を活性化するためのアグレッシブな提言を活発に行うエネルギーのようなものを感じますし、それが、経済成長という前向きな提言に結びついているのだとも思われます。ただし、雨宮さんの現場に基づく切実な重い言葉に対して、飯田さんの明るい前向きな言葉はどうしても軽く感じられ、ロジカルな思考も合理的で説得的ですが、テクニカルな感じで、どうも素直に心に響いてこない感じがしてしまいます。

反貧困の立場の経済成長批判は、経済成長の果実が高所得層で留まり貧困層までまわってこないことへの不信感が大きいとの見解ですが、確かにそのような面もあると思います。ただ、もっと広い層での経済成長へのマイナスイメージは、日本の高度成長期に失ってきた、自然環境や地域社会、家族の絆、さらには受験競争の激化に伴う様々な問題など、もちろん経済成長だけが理由ではないのでしょうが、高度成長期に生じた問題群が経済成長と関連付けられていることは間違いなく、もはやそのような意味での経済成長は懲り懲りだという意識が強いのだと思われます。

経済成長が財政を助けるのはその通りでしょうが、これまでの大量生産大量消費や資源浪費型の環境負荷の高い産業から、エネルギー消費の低い環境にもやさしい、サービスを主体とした産業へのパラダイムシフトを前提とした経済成長を提唱しないと、時代に逆行しているようなイメージを持たれしまう気がします。もちろん、景気がいいほうが良いでしょうし、経済成長により失業を初めとした経済的な多くの問題は解決するかもしれませんが、どうもそれだけで済む問題ではないような気がします。

働くことの意味も含めて、生きるということを真摯に考えた政策でないと、単なる財源確保のための労働力増強政策といった、少子化が将来の経済維持に不利なので女性に子どもを生ませる的な発想と同様の、目的本位で心の無いこれまでのよくある政策と同じに成りかねませんし、これからの成熟した社会のあり方を考える上でも、貧困問題を単なる労働問題として片付けるようなことはしてはならないと思います。

かつての日本の状況からも、経済成長が様々な問題を見え難くして、構造的な問題の温床になることを忘れてはならないと思います。私的には、経済成長を否定はしませんが、経済成長に頼るのはある意味危険なこととも思われ、景気の良し悪しにあまり左右されない、しっかりとした社会基盤を作ることが必要ではないかと考えます。でも、結局財源はどうするのかという問題に戻ってしまうのですが。そもそも、経済成長の是非とインフレ政策の是非の話は別の問題だと思われ、きちんと整理した議論が必要な気がします。

お二人は、問題意識は共有しているようですが、立ち位置の違いから議論がかみ合ってないようにも思えました。

飯田さんの他の著書など読んでいないので、その主張の詳細は把握していませんが、本書では雨宮さんの言説に合わせた形で話を展開しているので、飯田さん自身の本当の主張が明確に見えないような気がします。
本書はとても読みやすく、現代の貧困問題についての知られざる実像が垣間見えますが、もう少し具体的な形で政策的な提言もさらに明確にして、インフレ政策への批判も多々あるようなので、それらへの反論も含めて、飯田さんの主張を新書の形態で一冊にまとめて欲しいと思いました。

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<一言>
タイトルはあまり本書と関係ありませんが、読んでいるうちに頭に浮かんできました。
経済政策で景気を良くするという考えは当たり前のようにありますが、これはどこまで有効なものなのか疑わしく感じます。
もちろん巨大な額のお金が動くのですから経済への影響は大きいですし、確かにGDPを引き上げる効果もあるだろうとは思います。
しかしグローバル化の進んだ現在におけるGDPの増加は、日本でも韓国でもそうですが、雇用なき景気上昇となり、一般庶民の景気感はあまり上がらないものになりがちです。
それでも税収が増すからいいのだという見方もわかりますし、政府や企業そして国民にとってもいいことなのだとは思われますが、それは従来のモデルと同じであって、構造的な問題をそのまま残してしまう危険があると思われます。
その最大のものは少子化の原因でもある男性稼ぎ手モデルであり、狭い家族規範であるように思います。
同じく、環境収奪的な経済も限界があることを無視し続けることもできません。
今のままの社会構造と価値観を残したままで、持続可能で希望ある社会が実現するとは思えません。

「新書的大著。」

<転記 2009.11 レビュー短縮>

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)

本書はまさにタイトル通りの内容であり、戦後の世界経済を歴史的に振り返る、新書にしてはちょっと読むのが大変な本です。
しかし、著者も述べているように、単に歴史的事実を羅列した歴史教科書的なものではなく、世界経済全体を俯瞰しながら個々の出来事と日本との関係を明らかにし、さらには経済学の枠を超えて自由と平等の相克といった根源的な問題にまで踏み込み、人間の経済的営みの本質を辿るものです。

本書では主要な国々を抽出して取り上げているとはいえ、それでもかなり広い地域の歴史的経緯を踏まえながら、その経済動向を抑える作業はどうしても事実の羅列的な部分は避けられず、読むのがしんどくなることもありました。しかし、マーシャル・プランにより『ローマの休日』が作られたなど、時折出てくる意外なエピソードが興味を引きとめ、また新たな関心を引き起こすといった具合に、世界経済が歴史を作ってきた過程に思いを巡らす、ある種の旅のようでもありました。

本書の大きな流れとしては、戦後復興の開始から欧州各国の経済成長の過程を辿り、アジア諸国をはじめとする途上国の発展並びに社会主義経済の行き詰まり、さらに石油危機を契機とした世界経済の新自由主義市場経済への転換、そして昨今の金融破綻へと至る道筋となっています。
その中心にあるのは常に米国であり、復興支援のマーシャル・プランにはじまり、基軸通貨ドルの供給国としての責任、財政拡大とインフレの拡散、新自由主義経済の主導、世界的金融危機震源地としてなど、まさに戦後一貫して世界の金融の中心であり続けてきたことを再認識させられます。

戦後ドイツの通貨改革をはじめ、欧州各国の通貨切上げ切下げに腐心した様子から、通貨政策が一国の経済状況に多大な影響を及ぼすことはわかりますが、日常生活からはかなり遠い出来事であり、なかなか実感を持って理解することができません。しかし実際には80年代中のプラザ合意による日本の通貨切上げが後のバブルへと繋がるなど、その影響力は非常に大きく、日常的には意識しない金融政策が後に社会に与える影響の大きさを考えると、難しさと同時に、なんだか恐ろしい気もします。

また、東欧諸国の社会主義体制を概観することにより、分配の平等を実現するための計画経済が持つ致命的欠陥を指摘していますが、それは、市場システムでは「市場」が自動的に価格を決定するのに対し、計画経済では「人」が恣意的に価格を決定するという非合理性が経済全体を非効率にすると共に、それが容易に政治的問題へと転化されてしまうということであり、ここから、社会主義体制が最終的に行き詰ってしまうことが理解できます。

一方、先進諸国の経済発展の結果現れたスタグフレーションという現象に対して、それまでのケインズ政策による財政拡大政策は有効性をなくし、各国は金融引き締めでインフレを抑えるも、失業率は高止まりという状況に関して、スタグフレーション発生の原因がインフレ期待による利子率の増加という説明が紹介されていますが、これはよく理解できませんでした。まあ本書は現象の分析ではなく、全体の流れを追っていくのが主眼であるため、別途詳細な解説を当たってみる必要があるのだと思われます。

ラテン諸国の累積債務問題とアジアの通貨危機についての有効な研究はまだないとのことで、今後も同様なことが起きる可能性が高いということだと思われます。サブプライムローン問題など投機とモラルハザードの問題は今後も大きな課題として残るようです。
市場主義の利潤動機にしても、社会主義の政治的闘争にしても、「行き過ぎ」が問題を引き起こしているのであり、いかにそれを防ぐような社会的システムを作るのかが課題であるというのは、全くその通りだと思います。
しかし、社会主義の致命的欠陥である価格の恣意性も、市場主義を暴走させる人間の欲望も、どちらも人間の本性に基づいたものであり、これらに対して理性によるコントロールが望まれるのは当然ですが、その実現については、本性であるが故に相当な困難が予想されます。今回の金融危機において、サブプライムローンに見る詐術的金融商品から、正義や正直が市場成立の大前提であることを学んだということであり、結局は市場経済の成立が道徳性に帰着するという、近代経済学の祖アダム・スミスの言説の確かさを改めて認識する思いです。

本書によってわかるのは、戦後の各国の経済政策が、社会主義政策と市場主義政策とのバランスをいかにとるかということに腐心してきた様子と、また、アフリカに象徴されるように、政治的安定がいかに経済に影響を及ぼすかという、政治と経済との密接な関係性です。そこで興味深いのは、戦前から社会主義と市場主義の中間を標榜してきたスウェーデンの政策とその成り行きであり、その歴史的経緯や実践の内実、問題点などさらに詳しい実像について知りたいと思いました。

自由と平等の相克については難しい問題ですが、著者の言うように経済発展にも民主主義の実現にも人的資本が重要な役割を果たすということは間違いないように思います。
よって、教育を重視した政策が何よりも必要とされるということも理解できます。

本書によって、戦後の世界経済の大まかな動向が把握できたと同時に、世界の経済事象についての興味と関心が大分増したような気がします。

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<一言>
読み応えはあります。
20世紀が良くも悪くもアメリカの世紀であったことは間違いないでしょう。
それに終止符を打ったのが、2001年の同時多発テロだったと言えるのかも知れません。
その後のリーマンショックは崩壊の流れを決定的にしたのだと思われます。
繁栄の成れの果てと言えるかも知れませんが、巨悪と巨善の同居するダイナミックでパワーあふれる国であることには変わりがなく、今後も世界の重要な一角を占めるのは間違いないでしょう。
新しい価値観への転換が可能か否かが分かれ目になるのだと思われます。
日本もアメリカ追従路線のままでは、独り沈んでいくかも知れません。
鳩山政権の方向性はアジア重視なのかいまいちはっきりしません。

「財政の視点からの新自由主義批判」

<転記 2009.10.25 レビュー短縮>

人間回復の経済学 (岩波新書)

人間回復の経済学 (岩波新書)

本書は財政学者である著者が、世界中を席巻している競争と効率優先を旨とする新自由主義といわれる市場原理主義的な方向へと向かう日本社会の状況を、それでは人間が人間として生きることを困難にしてしまうという危機感を基に、財政社会学のアプローチから、益々進みつつある日本の構造改革に対して強力に異議を唱えるものです。書かれたのは、小泉構造改革の初期の頃になると思います。

財政社会学という言葉は聞きなれないものですが、イギリスのアダム・スミスを祖とする経済学に対抗する形で、それぞれドイツとフランスで発生したとされる財政学と経済社会学を統合する形で発展した学問とのことであり、財政を経済・政治・社会の統合した社会総体として理解することを目的とするとのことです。
シュンペーターなども提唱したとのことですが、全く聞いたことがありませんでした。
要するに、古典派経済学や新古典派経済学などの主流派経済学が純粋に経済要素だけを取り出し、人間は利己的にしか行動しない経済人であるという前提の基に、政治的な駆け引きや、社会的な共同意識などを排除した形で経済を分析するのに対して、財政社会学では、人間同士の協力や絆、家庭やコミュニティ、さらには自然との関わりに至るまで、トータルに経済活動を見ていくといったもののようです。
そのような視点から、経済は人間の生活を良くするためにあるのであって、経済システムを維持するために生活を犠牲にしてまで人々が従わなければならないものではないという、当然でありながら現代ではかなり忘れられている原則を改めて主張するものです。

著者は、1980年代からの相次ぐ日本の構造改革に異議を唱える中で、イギリスのサッチャー政権下での新自由主義政策により人々の生活が荒廃した状況を説明し、同様の事態がアメリカと日本でも起きた様子を解説しています。
また、第二次大戦後に人々に豊かさをもたらした「ケインズ社会福祉国家」が役割を終え、豊かな時代でその機能を果たせなくなった状況を説明し、それが国民の参加なき所得再分配国家であったために、官僚による画一的政策をもたらし、その結果現在の行き詰まり状態を招いたと主張します。

この状況の打開策として著者が提唱するのが知識社会への転換であり、それを支える社会基盤として、教育、医療、福祉に関する人的サービスの展開を主張します。
その優れた実践例として紹介しているのがスウェーデンであり、かの国の経済の危機的状態から情報技術産業などの知識集約型産業へと転換を図った様子と、それを支える教育システムや社会の構造について解説しています。スウェーデンという国名は福祉関連でよく耳にする割りに、具体的な状況はほとんど目にすることがありませんでしたが、本書でその一旦を垣間見ることができました。
本書によると、確かに素晴らしい制度によりかなり充実したサービスが展開されているようですが、まるで問題など何もない完璧な国家のように見えるので、実際の状況はどうなのか、問題点は無いのか、もう少し詳しく知りたいと思いました。しかし、歴史や文化、国民性、経済規模の違いなどもあるので、日本にそのまま適用可能とは思いませんが、参考になる点は多々あるのだと思われます。

本書は全体的に大きな枠の議論のようで、あるべき社会の具体的イメージが私にはよく掴めませんでした。
著者の提唱する知識社会の実現には、知的能力を高める必要があるというのは分かりますが、これはこれで新たな能力格差を生み出す危険性はないのかと心配します。能力ヒエラルキー社会みたいなものを想像してしまいました。
また、新自由主義やそれに沿った社会政策の推進が現在の格差と社会の崩壊を招いたとするのは、関係性は強いとは思いますが、単純には決め付けられない部分もあるような気がします。そもそもそれらの政策が何を期待し、なぜそれがうまく行かなかったのかの、もっと具体的な検証が必要なように思われます。
それと、著者がもっと人間性を重視した社会の実現を強く望んでいることは十分理解できましたが、文章が多分に情緒的で主張の内容が不明瞭になっているようにも感じました。
しかし、スウェーデンの状況など参考になりましたし、自分がいかに他国の社会システムについて何も知らないかということも改めて痛感しました。

本書は現在の資本主義経済にまつわる社会状況を、多角的にトータルに見るための一つの視点を与えてくれる本だと思います。

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<一言>
理念的な本なのだと思います。
逆に言えば具体性に欠けるという感じなのかも知れません。
「官から公へ」という言い方は新鮮でした。
スウェーデンの礼賛ぶりは少し目に余るものがあります。

「新たな選択肢を模索しませんか?」

<転記 2009.10.18 レビュー短縮>

持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想 (ちくま新書)

持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想 (ちくま新書)

本書は、著者が一貫して追求しているあるべき日本の社会保障のあり方について、「持続可能な福祉社会」というコンセプトに基づき、これまでの際限ない経済拡大路線から脱し、高齢化に伴う成熟経済における定常状態に向けた社会の構想を、これまでの著者の主張をさらに膨らませる形で、より具体的に議論を展開していく内容になっています。

そこで強調されているのが「人生前半の社会保障」という概念であり、これまで「カイシャ」と「家族」により”見えない社会保障”として担われてきた若者の教育や福祉が、経済格差の拡大により担保できなくなった現在、社会保障としてきちんと国が手当てを行うべきであるといった主張となっています。

それと同時に、定常型社会を支える新たなコミュニティの形成が必要だとし、それは従来型の共同体の一体意識と個人をベースとする公共意識が融合した形となるだろうと予測します。さらに、人類が生き残るためにはグローバルな視点での定常型社会の実現が不可欠だとし、環境資源の制限を考慮した世界的な福祉社会の構想を展開します。

個人的には著者の主張に賛成であり、このような社会へと転換することを望みますが、しかしながら、現実問題としてやはり経済問題が大きく立ちはだかっていると思われ、グローバル化の進展する世界において、激しい競争の中での企業の生き残りが模索される現在、著者の提唱する定常型社会における産業経済構造の姿がなかなか想像できません。
著者の提唱する定常型社会は、これ以上環境負荷をかけるような経済拡大はもはや望めないために、経済成長を目的としない、環境と福祉を重視した社会であり、恐らくNPOを主体とした福祉に重点を置き、新しいコミュニティを中心とする、新しい経済学のパラダイムに基づく社会となるのだと思われますが、新しいコミュニティについてはある程度の構想は見られますが、新しい経済学のパラダイムについては全く不明の状態です。

需要の飽和した状況で、働けば働くほど失業率が増えるという悪循環を、労働時間を削減し、自分の時間を取り戻すというワークシェア的な方向へ向かい、ベーシックインカムも視野に入れた富の再分配という構想は、理念としては正しく望ましいものであることは十分理解できますが、グローバル化による世界的競争の激化する中で企業がしのぎを削る現状とのギャップをなかなか埋めることができません。
これは、グローバル化における産業の競争力強化という分野はとりあえず切り離し、純粋に国内での医療福祉や地産農業など内需に特化した政策を行っていくということを意味するものなのか、だとすれば、これまでの日本の海外との貿易に依存した産業の裾野の大きさを考えれば、この方針はかなり劇的な転換を求めるものであり、現実問題としてそう簡単に実現できるようには思えません。
けれども、このような発想自体が既に古い考え方なのかも知れず、著者は市場経済を超えた領域の拡大を想定しているので、従来の市場経済に基づく考え方をしていたのでは、来るべき持続可能な福祉社会のあり方に対応できないのかもしれません。
ただ、グローバル化の急速に進む現在だからこそ、世界的経済競争の中で富の偏在は拡大し、経済格差は益々大きなものとなり、競争についていけない多数が苦しい立場に追いやられるという現実が、本書で示されるような普遍的な価値観に基づく持続可能な福祉社会を切実に必要とする状況を生み出しているともいえるわけです。

グローバル化の流れは止められませんが、グローバル化の中でどのような生き方でも選択可能な社会的基盤を作ることは不可欠であり、社会保障の概念は益々重要になるものと思われます。
これまでの政治がグローバル企業の競争を支援し、経済的拡大による富を社会全体へといき渡させることを目標としてきたとするならば、これからの政治は、世界的競争に乗れずにこぼれ落ちた人たちの生活を、いかに保障していくかに重点を置いた政策へとシフトすることは当然の転換だと思います。それでも、弱肉強食や優勝劣敗を掲げる自己責任主義者たちは、社会的弱者を怠惰の結果だとして保障に反対するのでしょうが。
政治の役割が国民の幸福のためにあるのだとするならば、何が真の幸福かを国民自身が考え選択し、激変する社会状況の中でどのように行動するのかを、政治に対して意志表示する必要があるのだと思います。

そのような意味からも、本書は来るべき社会のあり方の一つの有力なモデルを提示するものであり、我々にとって望ましい社会をいかに構築していくかの大きなヒントになる本だと思います。

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<一言>
いずれにしても、理念をどう現実に結び付けていくのかが問われているだと思われます。
過剰供給による需要不足や、働けば働くほど失業が増える状況が生み出している現在の日本のデフレ状況をきちんど把握し、単なる成長ではなく、社会を維持するための経済が求められているのだと思います。
本書での言葉、「ファスト・アンド・クローズド」から「スロー・アンド・オープン」へというのは大賛成ですが、現実のスピードを重視する企業原理とは相容れないものと思われ、やはりそこはグローバル化の競争原理とは異なる、別の地域システムが構想されなければならないのかも知れません。
前から気になっている都市景観の醜悪さも含めて、新たなコンセプトのシステムデザインができればいいと思います。
道未だ遠しといった感じです。